音楽家と歴史・社会 -37: 音楽の父を復活させたメンデルスゾーン
主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。
今回から、天才音楽家メンデルスゾーン(1809年 - 1847年)とドイツの音楽都市ライプツィヒについて、記述する予定です。
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディは、ドイツの音楽家。ユダヤ系銀行家のアブラハム・メンデルスゾーンの息子として生まれた。アブラハムの父は、哲学者のモーゼス・メンデルスゾーンであり、極めて知的レベルの高い家系であった。姉ファニーとフェリックスは音楽の才に恵まれており、アブラハムの方針により、幼少期から英才教育を受けた。
(注)「音楽家と歴史・社会 -7: メンデルスゾーンと真夏の夜の夢」の一部を再掲。
アブラハムは、ユダヤ人であることから決別を図り、妻レアの弟のヤコプ・ザロモン・バルトルディの助言に基づき、バルトルディ(キリスト教徒風の姓らしい)に改姓した。
理由は不明であるが、成年となったフェリックスは、メンデルスゾーンとバルトルディの2つの姓を併用した。後年メンデルスゾーン(つまりユダヤ人であることがわかる)と呼ばれるようになったため、本稿では、フェリックスをメンデルスゾーンを呼ぶ。
余談となるが、私は、改姓の自由に係る議論は、民族の歴史や伝統を踏まえるべきと考えている。
さて、1773年にベルリン・ジングアカデミーに加入した音楽愛好家の父アブラハムを追うように、メンデルスゾーンと姉ファニーは、1820年代にジングアカデミーで大活躍した。
1821年9月、ジングアカデミーの指揮者カルル・フリードリヒ・ツェルターは、愛弟子のメンデルスゾーンをヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテに紹介した。
12歳のメンデルスゾーンは、ヴァイマルの社交界においても、ゲーテの寵愛を受けて、有名人となった。
1822年、メンデルスゾーンは家族とともに、スイスのアルプス地方に旅行した。この素晴らしい経験は、メンデルスゾーンに、旅行からインスピレーションを得た楽曲を作らせることになる。
1826年に作曲した序曲「真夏の夜の夢」についての記述は省略する。
(注)「音楽家と歴史・社会 -7: メンデルスゾーンと真夏の夜の夢」参照のこと。
1827年、ベルリン大学に入学したメンデルスゾーンは、ライプツィヒのトーマスカントル(後述)の1人でしかなかった音楽家に名声を取り戻す歴史的なプロジェクトに取り組む。実は、メンデルスゾーンは、幼少期において、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの楽曲に親しんでいたのだ!
1823年のクリスマスに、メンデルスゾーンは、祖母のバベッテ・ザロモンから「マタイ受難曲」の筆写譜を贈られた。
同曲は完全に忘れ去られていたわけではなかったが、バッハの死後に公開演奏されたことは無かった。
1829年3月11日、メンデルスゾーンの指揮により、ジングアカデミーのホールで、「マタイ受難曲」が演奏された。メンデルスゾーンは、指揮に加えて、ピアノで通奏低音を弾いた。
ホールには入りきれない人が千人もいたらしい。
皮肉なことに、後世になって、「バッハのキリスト教音楽が世に知られるためには、ユダヤ人が必要だった」と評された。
メンデルスゾーンの名声は欧州中に鳴り響き、父アブラハムの援助により、イギリスに向かうことになる。ロンドンでの交響曲第1番の演奏会は大成功。ピアニストとしても、ベートーヴェン作曲ピアノ協奏曲第5番「皇帝」を演奏し、拍手喝采を浴びた。
気をよくしたメンデルスゾーンは、スコットランドに旅行する。その素晴らしい印象は、交響曲「スコットランド」や序曲「フィンガルの洞窟」として結実した。
しかし、順風満帆な音楽家人生を送るかに見えたメンデルスゾーンは、或る挫折感を味わう。そして、ベルリンを離れてデュッセルドルフに移り、その後、ライプツィヒに居を構えることとなる。
次回、その経緯等を探ってみたい。
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