「本の福袋」その6 『ダンシング・ヴァニティ』 2011年12月
朝夕の通勤時間や昼飯時、会議や研究会のために地下鉄で移動している時間など細切れの時間に本を読んでいると、すでに読んだページを繰り返して読んでしまうことがある。あれ、これは読んだことがある文章だ、すぐにそう気付く時もあれば、しばらくページを繰ってから気付く時もある。原因の多くは、しおりやしおり紐(スピン)をその時に読んでいる最新のページに移すのを忘れて本を閉じてしまうからである。別に歳のせいで忘れっぽくなっているのではなく、若い頃から何度も同じことを繰り返している。
『ダンシング・ヴァニティ』を読み始めた時も最初はそう思った。冒頭からわずか4ページ目で読んだことがあるような文章に出くわしてしまったのである。また、しおり紐をはさみ間違えた、一瞬そう思ったのだが、そんなはずはない。なぜなら、その時が『ダンシング・ヴァニティ』を読み始めた時だったからである。
変だなと思いつつ、そのまま読み進めると展開が少し異なっている。表現も多少違うことに気付いた。そこから数ページ読み進めると、また同じような出来事が起き、同じ光景がくりかえされる。そこでようやく作者の意図に気付いた。これは音楽のように反復される文学なのである。交響曲で主題がなんども繰り返されるように、物語の断片が何度も微妙に変化をつけて繰り返されながら展開し、全体として美術評論家の半生が語られる。そんな小説である。
大学時代に筒井康隆ワールドにはまって以来、ほとんどすべての作品を読んでいる。ナンセンスなSFも、ドタバタものも、ブラックユーモアの効いたパロディも大好きである。ただ、長寿命の作家の多くがそうであるように、作風は徐々に変化していく。初期の作品の中にも実験小説的な要素がある小説もあったが、次第に文学の限界に挑戦しているかのような作品が多くなっているように思う。
夢の形を借りて主人公がたどる可能性のあった世界を多重的に描いた『夢の木坂分岐点』、登場人物がすべて自分を小説の中の存在であると自覚している『虚人たち』、パソコン通信(BBS)への読者からの投稿を物語の展開に反映させた『朝のガスパール』、五十音が1つずつ消えて行く『残像に口紅を』などはその典型である。
『ダンシング・ヴァニティ』は、物語の多重性という点では『夢の木坂分岐点』に似た小説ではあるが、たぶん作者の意図は別にあるように思う。
ただ、どんな読者でも楽しめるように構成されている『残像に口紅を』のような実験的小説とは異なり、コピー&ペーストで物語の断片が執拗に繰り返される『ダンシング・ヴァニティ』は万人向けではない。たぶん文章によって描かれる物語をきちんと整理して理解しようとする読者には受け入れられないだろう。しかし一方で、この小説を大絶賛する筒井康隆ファンがいることも事実である。
もし、筒井康隆の実験的小説を一冊も読んだことがないのであれば、この小説はお薦めできない。たぶん数ページで挫折するのが目に見えているからである。それでも興味をもち、読んでみようかと思うのであれば、書店や図書館でちょっと立ち読みしてみて、この物語の展開についていけるかどうかを確かめることをお薦めする。
もちろん、筒井康隆ファンにはお薦めの一冊である。是非、熟読して新しい世界を堪能されたい。
【今回取り上げた本】
筒井康隆『ダンシング・ヴァニティ』新潮文庫、2011年1月、514円
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