溜池備忘録その6 「松阪城と蒲生氏郷」 2016年2月
松阪城
前回、安土城を訪ねたという話を書いたので、城の話を続けよう。
故郷の松阪市には松坂城(松阪城)がある。松阪駅(JR、近鉄)から西に500メートルほどのところにある四五百森(よいほのもり)と呼ばれる独立丘陵に築かれた平山城である。残されているのは石垣だけで天守閣も櫓も土塀もないが、松坂城跡として国指定史跡となっている。
市役所に近い表門跡から入って左に折れると二の丸跡、その先に隠居丸跡があり、中御門跡を通り、本丸跡の北側のぐるりと廻ると希代丸(きたいまる)跡に出る。その先が本丸跡で、その西よりの隅に天守が立っていた天守台がある。北側には阪内川が流れており、東側と南側に城下町がある。三層五階の天守といくつかの櫓は1644年(正保元年)の台風で倒壊したと伝えられており、残されていたいくつかの門も1881年(明治14年)に取り壊されている。たぶん写真などの資料が残されているだろうが、復元する話は聞いたことがない。
先に述べたように建造物はないが、築城当時の曲輪と野面積みの高石垣がそっくり残されていて日本百名城にも選ばれている。小学生の時に参加した松阪市の写生大会で、この豪壮な石垣を画用紙一杯に描いて何かの賞をもらった記憶がある。下書きは丁寧にしたものの、早く友達と遊びたくて、水彩絵の具で中途半端な色を付けた未完成の絵だったのだが、なぜか賞をもらえた。これは今でも謎のままになっている。
ちなみに、城内には本居宣長記念館と歴史民族資料館があるほか、二の丸に梶井基次郎の文学碑がある(松阪は、梶井基次郎の短編小説「城のある町にて」の舞台になっている)。
蒲生氏郷
松坂城を築いたのは戦国武将の蒲生氏郷(がもう うじさと)である。近江の守護大名であった六角氏の重臣で、日野城の城主であった蒲生賢秀(かたひで)の三男で、幼名は鶴千代。1568年(永禄11年)に観音寺城の戦いで六角氏が滅亡した後、賢秀は織田信長に臣従し、鶴千代(氏郷)を人質として差し出した。信長はこの鶴千代を気に入り、自分の娘(二女の冬姫)を嫁がせている。つまり、氏郷は信長の義理の息子になる。
氏郷は、柴田勝家の与力として姉川の戦い、伊勢長島攻め(第一次、第二次)、朝倉攻め、小谷城攻め、長篠の戦いなどに従軍している。1582年(天正10年)に信長が本能寺の変で亡くなると、秀吉に臣従し賤ヶ岳の戦い(1583年)や小牧・長久手の戦い(1584年)で武功を挙げ、1584年(天正12年)に伊勢国12万3千石を与えられ、松ヶ島城に入城している。近江では6万石であったので、石高は倍増したことになる。この松ヶ島城は、現在の松阪駅から3キロメートルほど北のあり、当時は伊勢湾に突き出した平城だった。氏郷は、この城は城下町をつくるには手狭であると考え、1588年(天正16年)に松坂城を築城したと言われている。
この時、氏郷は松ヶ島の住人を強制的に移住させただけでなく、旧領である日野の商人(近江商人)を町の中心部に呼び寄せて楽市楽座を設けたと言われている。これは義父である信長の城下町作りを習ったに違いない。ちなみに、現在でも松阪市の中心部に日野町という地名が残っている。
1590年(天正18年)、秀吉は奥州の伊達政宗を牽制するため、氏郷を会津42万石(後に91万石に加増)に移封した。したがって氏郷は、松阪城を築城し、城下町を整備した直後に移動させられたことになる。しかし、松阪市では松阪の礎を築いた氏郷を偲び毎年11月に「氏郷まつり」を開催している。
その後、氏郷は、1592年(文禄元年)に朝鮮出兵のため肥前名護屋城に参陣したものの、陣中で体調を崩し、1595年(文禄4年)に伏見の蒲生屋敷において病死している。享年は40であった。
最近、氏郷と冬姫、それぞれを主人公にした歴史小説を読んだ。安部龍太郎の『レオン氏郷』と葉室麟の『冬姫』である。
三井高利
松阪で最も有名なのは「松阪牛」だろう。次が本居宣長。3番目は歌手の西野カナ、あるいは北海道の名付け親の松浦武四郎、青春時代を松阪で過ごした映画監督の小津安二郎あたりだろうか。あるいは三井財閥の基礎を築いた三井高利かもしれない。
実は三井家も氏郷と同じ近江の出身である。ただ、氏郷が松坂の城下町をつくるときに呼び寄せた日野の商人ではないらしい。室町時代末期の三井家は、蒲生家と同じように近江の守護大名であった六角氏に仕えており、六角氏が滅亡した時に伊勢の松ヶ島にたどり着いたのだと言われている。そして、氏郷が松坂城を築城した時に現在の松阪市本町に移住してきたのである。
現在も松阪市本町には(非公開であるが)三井高利が産湯を使ったと伝えられる井戸や高利の祖父母と父母の五輪塔、記念碑などがあり、三井家発祥地として市の史跡となっている。
1622年(元和8年)に生まれた三井高利は、51歳の時に江戸本町一丁目に呉服店「越後屋」を開業した。これが現在の三越の始まりである。説明する必要はないかもしれないが、三井越後屋を省略して「三越」という名称が生まれたのである。
高利が越後屋を開いた頃、江戸の大店は値切り交渉を前提として高めの価格を付けるのが一般的だった(この高めの価格を「掛け値」という)。また支払いは盆暮れ年2回のつけ払いが一般的であり、呉服屋は得意先を訪問して反物(和服1着分に相当する1反の布地)を販売していた。ところが、高利は現金掛け値なしの店頭売り、つまり店頭で正札通りの価格での現金販売、反物の切売りありという斬新な商売を行った。この新商法が当たって三井は江戸の豪商の仲間入りをしたのである。
ちょっと話が城から脱線してしまった。
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