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到達目標の設定について考える

 授業実践の到達目標や到達度評価について考える機会があった。そこで国語科におけるこの領域の代表的著書、水川隆夫『国語科到達度評価の理論と方法』(明治図書、1981年)を読み直している。興味深い点が多い。授業のしかた、目標設定や評価のしかたについて考えてみたいと思っている、若手や中堅の先生には役立つ本であると思う。

(引用開始)
 次に、各学校での到達目標を設定する際の、留意点を三つばかり挙げておくことにする。
⑴ 教育の目的と教科の目標に照らし、各学校段階、各学年の到達目標は以下にあるべきかを追求するとともに、当年度については、性急に理想を追わず、児童生徒や学校の実情をよく見つめ、現状を一歩ずつ改善することをめざして到達目標を設定すること。
(…中略…)
⑵ 基本的指導事項ごとの到達目標と通知票の評価項目とを混同しないこと。
(…中略…)
⑶ その到達度が、評価方法の工夫によって、計測・観察・推定できるように目標を設定するとともに、このレベルでは、あまりに具体的な目標の提示は避けるようこと。
(p.77)(引用終了)

 ⑴は、到達目標と日常の授業が遊離しないように求めている。到達目標よりも日常の授業が重要ということでもある。確かにそうだ。策定した到達目標を絶対視しない。到達目標に合うように授業を進める。そのことは、ともすると、子供の自然な思考の流れを奪うことになりかねない。到達目標と子どもの実態の関係が問われる理由である

 ⑵は、学習評価と成績評価のちがいを述べている。あるいは形成的評価と学期末評定のちがいと言ってもいいか。⑴をどこまでも推し進めていくとこのような考え方が出てくるのかもしれない。通知票の各項目をそのまま授業の実践目標とするような行き方だ。到達目標はあくまで個々の授業のための目標であり、それは授業中の形成的評価を進めやすくする手段だとされている。

 ⑶は、実践目標をどこまで言葉で具体化するか、バランスを取りなさいよ、という私的である。これは指導者向きの目標と学習者向きの目標のちがいを考えることでもある。あくまで例としてだけれど、「目玉焼ができれば、卵料理ができたことにする」と評価するとしよう。この、目玉焼きと卵焼きの関係の見極めが肝心だ。「Aができれば、Bができたことにする」というときに、Bを具体化しすぎると、到達目標の規模は数限りない膨大なものになってしまう。水川は次の二つの例を出している。

(引用開始)
A「段落ごとの要点を示す中心文にサイドラインをひくことができる。」
B「段落ごとの要点を見つけ、まとめることができる」
(記号は引用者。引用終了)

 Aは、到達目標としては具体的すぎるとされている。具体性のレベルを上げれば上げるだけよい、というわけではない。到達目標は、授業で学習者が取り組む活動目標そのものではない。そこから一歩抽象度を挙げて、「結果、何ができるようになったとみなすか」を示そうとするのが到達目標であり、到達度評価なのだ。この到達目標を実践目標に、そして実践目標を到達目標に置き換える手続きが上達することが、学力の身につく楽しい授業づくりにつながっていく。少なくとも私はそう思う。

 到達目標に限らず、目標設定は、授業実践にあたっての大切なプロセスの一つだ。教師が子どもの実態を見極めながら、いまこの授業で子どもたちに必要なことを見極める。これが目標設定である。それはお役所に任せておけばいい仕事ではないし、お役所ができる仕事でもない。現場教師しかできない。いま、何のために、子どもたちに国語を教えるのか。その答えを、学習指導要領に書いてあるから、以外の答え方で答えられるということ。それは国語科授業を、その先生らしい個性的なものにすることにつながっている。目標を考えることは、子どもと教師の教育的関係性を築くことなのだ。

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