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私はそう呼ばれたくない ~ニックネームが生んだ失敗談~

私が小学生の頃。

それこそ担任の先生からあだ名で呼ばれたり、「苗字+君」で呼ばれたり、「Toru君」でよばれたり。実にいろいろな呼ばれ方をしてきた。

特に自分が尊敬している5,6年の時の先生からは「Toru」と呼ばれていた。呼び捨てだ、なんて考えもしなかった。



私の教師生活1年目。自分のクラス(4年生)に「みか(仮名)」という女の子がいた。

前年度担任していた先生は、親しみを込めて「おみか」と呼んでいた。その2人の人間関係は良好だった。

私自身は、「みかさん」「みか」などと呼んでいたが、ある時、つい「おみか」が口を突いて出た。

すると、みかは反発した。

「なんで先生にそう呼ばれなかんの。」
 
「前の担任の先生はよかったのに、呼び方ひとつで批判されるのか。この世界は厳しい。」と思った出来事だった。

でも今なら、反発して当たり前だとさえ感じる。それはなぜか。


 
敬称をつけて呼ぶ意味

私は、自分の経験から、敬称をつけることに対して、あまり深く考えたことがなかった。

先生から呼び捨てで呼ばれても、親しみを感じていたし、低学年の頃は、先生や友達からもあだ名で呼ばれていたので、何の違和感ももたなかった。

だが、それは自分自身の実感であって、誰もがそう思うわけではない。

特に小学校だと、高学年の子ほど、先生の呼び方に対して敏感に察知する。

当時の私は、そんな考えは一切なく、つい呼び捨てで呼んでしまうことも多かった。ひょっとしたらその「みか(仮名)」は、日頃から私の呼び方に対して、違和感をもっていたのかもしれない。そんな中、私の口から出た「おみか(仮名)」。

みか(仮名)と私は、信頼関係がうまく築けていなかった。
だから、好きではない先生から言われて、余計に嫌だったのだろう。

このコンプライアンスが叫ばれる時代。大人も子どもも、敬称を付けて呼ぶことへの重要度は増す一方だ。そしてそれが、一人一人をきちんと尊重する姿を見せることにつながる。「敬称=あなたを大事に思っていますよ」というシグナルともとれる。

教師の呼び方一つで子どもが安心感をもつ。すると、子ども同士のつながりの中でも優しい言葉かけが増える。

名前を大切にし、その人を大切にするのが「敬称」なのだろう。
 



このブログでは、現役教員としてたくさんの失敗を積み重ねてきた私が、当時の失敗を今ならばどうするかという視点をもち、書いています。教師として働いている皆様に向けたヒントとなることがあれば幸いです。
また、時には教育の世界に向けた私自身の思いを語る場になることもあるでしょう。
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