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「でくのぼうがなく」と「やまなし」と『花持て語れ』。

といふことで(にやはり戻る)、元は本歌取りでも
しようか、とつらつら始めて観たのですが、この中では
とりわけマイナーな一曲なので、ここのメインテーマは
東京少年で「でくのぼうがなく」。

なぜこの曲への連想に至ったか、と言われれば、
それは珍しく特集なんかのページをサーフしていて、
みんなのおすすめの本まとめなんてところを手繰って
いたからだ。

みんなのおすすめの本 記事まとめ|note読書|note

その中にこの記事を見つけた。

デクノボーとして生きる|くさか ゆきこ|note

小学生だった頃、国語の教科書で出会った「やまなし」。
子どもには充分過ぎるインパクトでした。意味が全然
分からないものが教科書に載っているという衝撃と、
奇妙な感じだけれど語感の良い言葉の数々、なんとなく
怖くて不思議な物語に惹きつけられて、何度も読んでは、
友達と下校の道すがら「クラムボンは笑ったよ。」
「クラムボンはかぷかぷ笑ったよ。」と、声を上げて
暗唱したものでした。

デクノボーとして生きる|くさか ゆきこ|note

逆に詩の朗読は盛んだったけど、小学六年生の教科書に
これがポツンと載ってた時は奇妙なまでに難解な感じで
浮いてるな、といふ印象が強かった。
 思えば詩の朗読の文脈で読めばやはり違って見えて
来るんだな、と理解したのは大人になってから。

で、件の記事は宮沢賢治の雨ニモ負ケズを引用して
こう述べられていますが。

詩に描かれている「デクノボー」がそれとは対極なのに
驚きました。デクノボーの姿とは、汗と涙を流しながら
「あらゆることを自分を勘定に入れず」他のもののため
に生きる人、なのです。

デクノボーとして生きる|くさか ゆきこ|note

ま、ある程度あめゆじゅとってけんじゃ、まで理解
してた上でわりかし宮沢賢治の心情は汲みとれている
とは思ってますけど、北に住む朴訥な生き方の姿勢の
一つとして「デクノボー」ってスタンスは確かに
あるんだけど、似たような気持ちをちゃんと歌に
している曲がそういやあったな、ってことでひとまず
「でくのぼうがなく」に辿り着いたのでした。

そしていつしか大人になり、藤田和日郎の門下生で
すさまじい作品を編集と共に作り上げた大作が
片山ユキヲ『花持て語れ』。なんか一回35ページの作品
原稿の元は80ページほどのパーツに分かれていて、それを
専任の編集が絶妙な配置で構成していく、とか言われると、
それは天才と天才が組んだ変態仕事だよな、
とも思ったんだけど。

「やまなし」は単行本だと一巻から二巻の5話分くらいで
紹介されるのだっけ。

まあ「唯一無二の朗読まんが」と称されただけはあって、
どの視点で「やまなし」を読むか、に関してのスタンス
語りがまあすごい。

まあこの御時世で片手間な手抜き系テレ東ドラマで
次作「ふろがーる!」をドラマ化されてしまったのは
少々残念でしたが(風呂パートはそこそこ頑張って
再現レベルにあったけど、バイクツーリングパート
完全オミットだったからなあ)、まんがとして、かつ
朗読まんがとして金字塔を立てたに等しい片山ユキヲの
『花持て語れ』に関して思い至った、といふ話を今日は
ひとまずつらつらと記してみました。


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