ふと隣にある差別に気づく
今回はドキュメンタリー映画の感想です。
『チチカット・フォーリーズ』 "Titicut Follies" (1967)、アメリカ
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・マーシャル
現在、水道橋のアテネ・フランセ文化センターで開催している
フレデリック・ワイズマンの足跡Part.3
フレデリック・ワイズマンのすべて
昨日はワイズマンの処女作である『チチカット・フォーリーズ』 を観てきました。
大学生時代から観たかったドキュメンタリー映画です。
あらすじ
マサチューセッツ州ブリッジウォーターにある精神異常犯罪者のための州立刑務所マサチューセッツ矯正院の日常を克明に描いた作品。
収容者が、看守やソーシャル・ワーカー、心理学者たちにどのように取り扱われているかがさまざまな側面から記録されている。
合衆国裁判所で一般上映が禁止された唯一の作品である。永年にわたる裁判の末、91年にようやく上映が許可された。
(アテネフランセ文化センターデータベースより引用)
座席に釘付けになるほどのショック
想像以上に厳しすぎる、ショッキングな内容でした。
そしてそれを目の当たりにするしかないやるせなさ。
ワイズマンは沈黙を守って、目の前で起きていることの良し悪しを定義してくれません。
でももう目を背けられない。
「病棟に入ったことで僕は悪くされた」
分裂症と診断され矯正院から出ることができない青年が言う言葉です。
「先生たちは診断や薬物療法で僕たちを治そうとしているけど
実際にはこの病棟に入ったことで、症状がどんどん悪化している」
大声でひっきりなしに妄言を吐いている人
何が何だかわからなくなり風呂の水をおいしいと言って飲む人
衰弱して食事もできない老人の患者
四肢を押さえられ、鼻からチューブで養分を注入される姿にクロスカットされるのは、やせ細った彼の死体。
F棟8番の独房に入れられたキングと言う青年は
少女暴行、放火、娘への虐待、自殺未遂など様々な罪で、刑務所を経てこの矯正院にやってきます。
問診を受けているとき彼は、ごく普通に意思疎通でき、話もできる状態でした。
しかし終盤に彼の姿が映るときには
彼の顔は変形し、顎は尖り、意識も朦朧としているようでした。
そして折れ曲がった指をいっぱいに広げてこちらに手を振るのです。
ここまでの地獄みたいな惨状は
彼らがどんな罪を犯し、どれだけ精神的に異常だったとしてもありえるのか・・・
ワイズマンのまなざし
上映後の高橋洋さん(『リング』など脚本/監督)と三宅唱さん(『きみの鳥はうたえる』監督)の対談がありました。
高橋さん曰く、この作品はまだあまりワイズマンらしくないと。
処女作ということもあってあれこれ計算して作った感じがあると仰っていました。
高橋さんらしい考え方だけど、「意図していない方向への飛躍」がこの映画にはないということです。
確かに、浅学な私でも作品のテーマは理解できました。
ところが一方で、作品全体がつるりとうまく収まっている感じもしました。
しかしワイズマン自身も言うように「主観のない映画なんてない」。
だから私は、ワイズマンの主観のうまい隠し方と
作者側から作品の意味づけをしてもらえないことで、ただ立ち尽すしかないであろう私のような観客に「考えろ!」と強く迫ってくる静かな気迫に圧倒されるばかりでした。
差別は遠い昔のタブーではなくて、日常的に隣にあるもの
ワイズマンは主観を排した視点で作品を作っているという定評がありますが、やはり考えるヒントは与えられていたと思います。
最終的にこの映画を俯瞰してみたとき、ワイズマンの主観というかメッセージがわかりやすく入ってくるような気がしました。
衝撃が強すぎて、この映画についてあまり何か言える状態じゃないけど、ただ確実に言えるのは自分の視野が広がったということです。
ほとんど人間の尊厳を失った状態で、彼らは死を待つように矯正院のなかで暮らす。そこにいいもわるいもない。
逆に患者の世話をしてる警官たちの方が、どんな気持ちなのかと感じました。
患者たちのこと人間とも思っていないのかもしれない彼ら。でも彼らは私自身かもしれない。平然とそこで差別がされているってことに彼らすら気づいていない。私も気づかぬうちに差別をするかもしれない。それがこの映画を観た私の感想です。
作品に対しての明確なビジョンは確実にあるはずですが、高橋さん曰く、ワイズマンはそのテーマも飛び超えるような何かを引き込む力があるということでした。
なので、もう少しちゃんと観たいなと思います。
『霊長類』
『DV 1,2』
個人的には『セントラルパーク』
それにしてもアテネ・フランセ遠いんだよな〜
観ない方が幸せかもしれない映画です。
でもこの映画を見ることは貴重な体験になることは間違いないです。