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外山滋比古『思考力』|自分の頭で考えるために


内容

「自分の頭で考える」とはどういうことか?勉強をして「知識」を増やすことは望ましくない?
「考える」ことについて分析した一冊。

感想

私は「思考」しているのか?

私はいま大学院に通って研究をしている身だが、絶賛行き詰まり中である。そんな中で最近「私は今までじっくり考えることが得意なほうだと考えていたけど、実はそんなことないのでは?」「というか、今まで自分の頭で考えるということをしたことがあまりないのでは?」ということに気がついて、愕然とした。

これまで結構「勉強」は頑張ってきたほうだし、なんだかんだ言いつつ嫌いじゃなかった。だからたぶん、瞬発力やキレはなくても、じっくり「考える」ことはたぶん得意だ。だから、今までそれなりに色々乗り越えてきたんだ。
……と、今まではこう考えていたのだった。

でも、実際は違うっぽい。私、考えること自体、苦手っぽい。
これまで頑張った「勉強」は、実は「自分で考えない」ために、人が用意した回答を暗記するだけだったんだということに気がついた。それをあまり深く考えずに、ここかな?というタイミングで出すという作業をしているだけだった。
いま研究を進める中で、それでは通用しないことをひしひしと感じている。

著者は、この本の中でそのことをはっきりと指摘している。

小学生のときからずっと知識を習得し、記憶して、テストのときにそれを書いていれば点がとれた。彼らの勉強のしかたは、本を読んで、頭に入れて、それを整理して、必要なときに出せばいい、というものである。自分の頭でものを考える必要はなく、考えたこともない。急に考えろといわれても、できるはずがない。

外山滋比古『思考力』,p.25

(私の場合、知識の習得や整理も得意とは言えないのがなんともいえないところだが……)まさに最近気づいた私のことだ。「自分の頭でものを考える必要はなく、考えたこともない。急に考えろといわれても、できるはずがない」のだ。

以下は日本という大きな話になっているけれど、だから自分自身と重ねるのは微妙な気もするけど、自分も自分の物事に向き合う姿勢や方法に対して一度「衝撃的反省」をするときが今だ、と感じさせられた。

これを正すためには、一度、「日本はだめな国である」という衝撃的反省をしなければならない。いままで日本は国際的にもそうとう水準の高いところにあると思っていたけれど、そうではないということをはっきりさせる必要がある。

同上,p.27

「考える」とはどういうことか?

振り返ってみると、私は「知識を蓄積すれば、それが身になって、そこから新しい考えや発見が浮かび上がるようにひらめくもの」という幻想を抱いていた気がする。

しかし、著者は知識をただため込むことを「ラクをしている」と言う。

知識があれば、借用もできるし、利用もできる。考える必要がないから、いたってラクである。

同上,p.30

では、「考える」とは、「思考」とはどのようなものなのだろうか。
それに対しては、以下のように述べている。

思考とは、それはなにか、なぜそうなのか、という疑問をもって、それを自分の力で解こうとすることをいう。

同上,p.30(太字は引用者による)

ちなみに「思う」も「考える」とは異なるものであるらしい。
これを見ると、私は何に対するときも「考え」ずに「思」ってばかりだなという気がする。

それに対して、「思う」とは自発的ではなく、あくまで受け身である。外からきた刺激に対して心理的に反応することであって、何かすでに存在しているものを受けて「思う」。「感じる」も同じことである。

同上,p.30

知識過剰の弊害「知的メタボリック症候群」

著者は、知識や情報が過剰な状態を「つねにバケツをいっぱいにしている」と表現している。そしてそれは「少し動かしただけでバシャバシャこぼれ」、まさに「頭を悪くする最大の要因」であるとする。

また、知識は増えれば増えるほど、「考える頭はどんどん縮小していく」。このことを「知的メタボリック症候群」と言っているという。

自分の頭で考えられるようになるために

では、自分の頭で考えられるようになるためにはどうしたらよいのか?
そのポイントは「無知」らしい。

一般に、「無知」は悪いことのように思われているが、よけいな知識がないために生じる「無知」は、むしろ歓迎すべきである。

同上,p.45

凡人の私としては、この「よけいな知識」を判断するための知識がいるのでは……?とか思ってしまったが、ここで重要なものとして示されるのが「忘却」だ。

「忘却」は「いったん頭に入れたものを忘れて、意識的に無知に近い状態にする」こと。これは頭のはたらきによってできる「知的な無知」であるから、この状態でものを考えていれば知識というのはいつも必要とは限らないから自然に忘れる、とのことだ。

 不純物を除去し、頭を清浄な状態にしておいて、そこにいい刺激を与え、必要な知識を入れていく。それがいっぱいになりそうになったら、また整理してゴミ出しをし、またとり入れる。
 このような状態を保てば、頭はいつもすっきりしていて、ものごとを正しく吸収できる。活発に忘却できる人ほど、頭は良好な状態にあるということだ。

同上,p.55(太字は引用者による)

具体的には、「睡眠」や「運動」によって頭をスッキリさせるのが良いと書かれている。

情報を頭に入れることそれ自体が重要なのではなく、その情報を整理して取捨選択、特に「忘却」することを怠っては意味がない、ということなんだろう。(確か、『記憶の整理術』のほうにはその情報整理の方法が詳しく書いてあった気がする……うろ覚え……)

この本に出てくる、知識ばかりつけようとして頭を働かせようとしない人、というのはまさにこれまでの、そして今の私のことだ。私には考える力がない……としょげていたところ、次のような言葉も残してくれていた。

苦難や困難にぶつかって、それを克服しようとするときに、考える力が生まれてくる。解決するための適当な知識がないときには、自分の力で切り開いていかなければならない。その支えとなるのは、経験である。生活体験の中でつちかってきた知恵であり、知識のエッセンスが凝縮された英知である。

同上,p.37(太字は引用者による)

これを自分に置き換えて、いま進めている研究に「経験」が支えとなる?と考えると実はあまりピンと来ていないが、いまの状況を克服するために自分の頭を使おうともがくことはできそうだ。
どうにか歩みを止めずにいこう。

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