性的消耗品。
文藝春秋の「SDGs」に関するエッセイのコンペがあると聞いた。
僕自身がどんなサステナビリティを持って生きているか、と自問すれば
ほぼ全てが一般的であり
恥ずかしながら「敢えて」やっていることなど何もなく、これは諦めようと思った。
それでも何か書こうと
自分のアイデンティティの中で
一般的ではないところから引っ張り出そうと考えた時に、
僕は性的少数者と呼ばれるもので、
それは自分自身であり日常であり人生だからこそ
特別な「自分らしさ」だと思い生きてはいないが、
シスヘテロの人々にとって僕は特別な存在なのかもしれない。
ではそれとSDGsを絡めて
文章を書けと言われたら
僕は次世代に繋ぐものなど何もなく
単なる「消耗品」でしかないのかもしれない。
彼氏と「いつか子供が欲しいね」なんて
絶望のトーンで希望を話す感じとか
遺しても意味ないから不動産は賃貸でいいやとか
ゲイであることが
一般的だと思っていたサステナビリティ指数を
さらに遠退かせた気がする。
いつか「生産性がない」なんて吐き捨てた
保守の女がいたけれど
僕もそれなりに生まれ育ったこの国を愛しているしここで死にたいし、
同性婚は認めてくれたら嬉しいけれど
自分が左だとも真ん中だとも思わない。
持続可能な開発目標か。
こんなタイトルにしてみたから
性に奔放な人間、みたいなイメージだけれど
そうじゃぁない。
ジェンダー平等をSDGsの17の目標は掲げる中、
僕のジェンダーにとっての平等も何かを残していくための役に立てるのかなんて、
全く見当もつかないけれど。
これから先の未来に
身近で子供が生まれた時。
その子達が幸せに暮らせる世界があればいいなと願う心は、
僕にだって、ある。
それに僕のようなマイノリティの子供も
当たり前だが、生まれる。
これからもそんな子供が生まれた先に
絶望しない世の中作りに参画することも
SDGsに、僕がいる、
ということにならないだろうか。
ゲイの友達が何人か、自分で死んだ。
それだけが理由ではないけれど
持続可能な開発目標を持たないと生きる意味を失いやすい人種が、いるんだと思う。
最近トランスジェンダーのトイレの問題とかあるけどさ、気持ちはわかるけど、
本当に困ってる人もいるし、もう少し優しい言葉が飛び交うと、いいよね。
そんな世の中作りがSDGsの一つなら
僕にも、一人じゃないよって、こんな文章を書くことで役に立てるのではないか、と思ったんだよね。
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