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感覚を言葉で尽くせ
有賀薫さんとスイスイさんのハッピークッキングを見ました。
すべての料理嫌いに捧げる #ハッピークッキング をご覧いただいたみなさん、ありがとうございました!🍚
— noteイベント@#noteフェス 見逃し配信中 (@note_eventinfo) September 28, 2020
スイスイさん @suisuiayaka、有賀薫さん @kaorun6 おつかれさまでした。
本日のイベントの様子は、こちらから見逃し配信! ぜひひきつづき、お楽しみください👋https://t.co/ydoZq4pz8s
「塩ひとつまみとか、適当でいいとか、ほんとやめてください!」
とガチギレしだすスイスイさんと「どうしたもんか…」と言いたげなお顔の有賀さんのやりとりが楽しくてゲラゲラ笑ってしまった。(直前までの女子会みたいな和やかさとの対比が余計に可笑しかった)
私もつい「塩ひとつまみくらい覚えようよ。。」と思ってしまったけれど、でもスイスイさんのうろたえ方、コンプレックス由来の不安な気持ちは身に覚えがある。古武術のお稽古での私がそれだ。
古武術というのは現代人の私たちからすると、かなり風変りな体の使い方をする。先生方はいとも簡単にやってみせる型が、なんど真似してもなかなか同じようにならない。関節の数も筋肉の材料も同じはずなのになんでだ!と思う。一度どつぼに嵌まってしまうと最悪だ。できない自分が無様で滑稽に思えて、ものすごくみじめさを感じる。そこから抜け出そうと躍起になる。でもそうなる度に、先生は「ムキにならないでね」と仰って、様々な言葉で体の感覚をずらしたり無意識のクセをとっぱらう手助けをしてくださる。
あとイベントを見てて気づいたのだけれど、料理ではヘンテコな言い回しが初心者にとって大きなハードルになっているみたいだ。「沸騰しない程度に」とか「耳たぶくらいのやわらかさ」とか。できる人にとってそのハードルは存在しないことになってるので「なんでそんなとこで転んでるの!?」となる。レシピって作業指示書のはずなのに、指示の書き方があまり具体的じゃなくて感覚に頼りきりなのだ。これも古武術に似ている。
古武術では「腰をきる」とか「お臍を落とす」とか、特殊な言い回しがよく出てくる。最初はなんのこっちゃと思っていたけれど、分からないなりにその言葉を頭の隅に置いてお稽古に取り組むと、いつのまにか分かるようになった。一度分かってしまえば「それ以外に言いようがない」とすら思えるのだから不思議なものだ。とはいえ先生方もヘンテコさをよく理解していらっしゃるので、「ごめんね変なことばかり言って。」と笑いながら指導されている。このくらい分かって当たり前でしょ!なんて一度も言われたことがない。分からなくて当たり前で、それでいいと肯定されている感じがする。分からなくてもその日のお稽古が楽しければいい。もし何かの拍子に分かるようになったら「今、分かったでしょ!?」「分かりました!!」なんて、子供のようにきらきらした笑顔をみかわして喜びあったりする。それこそ、出汁の美味しさを知ったスイスイさんとそれを喜ぶ有賀さんみたいに。
分からないよね~といいながら笑いあって、分かりあえた!といって笑いあう。どちらにしても楽しい。なんで楽しいのかといえば、つまるところ楽しむことが許されているからなのだと思う。そして感覚を覚えるためには、まずは感覚を楽しむことしかないんじゃないか。
なぜなのかは知らないけれど、料理においては「できないのは困ったこと」「言葉が伝わらないのは知らないほうの責任」「教われば誰でもできるようになる」という不文律が見え隠れする。
これが古武術だと
「できなくても困らない。そもそも出来るからといってそれが何なんだ」
「言葉で伝えきれなくて当たり前。分からないことも分かっていく過程も楽しい」
「できるかどうかは人による」
これが常識…かどうかは知らないけれど、私の体感としてはそんな風に感じている。
3つめの「人による」というのは、養老孟司さんと武術家の甲野善紀さんの対談で読んだのだけれど、「江戸時代の武術道場は、誰にでも教えていたわけではない。門下生になりたいという人の素質を見て『うちの道場には合わないよ』と断ることもあったらしい。」とのこと。身体感覚は人によりけりそれぞれなので、教えれば必ずできるようになるなんてことはなかったのだそうだ。それが一変して全員一律同じことを仕込まれるようになったのが文明開化後の軍隊教育で、それが今の体育会系のしごき指導にも通じているというお話だった。一律教育にもしごきにも、ある一定の効果はあるということを認めたうえで「でもそれでうまくいかない部分もあるよね?」というクエスチョンを投げかける。面白い対談だった。
ひょっとしたら料理の周りの人たちも、似たような部分で困っているのかもしれない。懇切丁寧に説明しても、あるいは適当でいいと諭しても、伝わらないことはある。それは当たり前のことだ。だってできるあなたの体と、できない私の体は別々なのだから。それでは料理家の体ではどんなふうに感じながら料理しているかというのが気になるけれど、そこを言語化しているひとってそういえばあんまり見かけない。食レポはみんなやりたがるのに。不思議なことだ。
塩ひとつまみを摘んだ指先ってどんな感じか?(こぼれんばかりなのか、一粒も落とさないようにがっちり摘むのか)
二番出汁を漉すときはどのくらい絞っていいのか?(濡れぶきの布巾くらいか、それとも一滴残らず絞るのか)
料理に馴染みのないひとが料理するにあたって知りたい『具体的なこと』って、そういう身体的なことなんじゃないかと思った。
身体感覚ってどんな人もちょっとずつちがってて、しかもこの体があるうちでないと感じられない。お稽古しているとよくそんなことを思う。生身の体は歳とるし疲れるし怪我もするしいつかは死んでしまう。それでも体があってよかったなぁと何度も何度も思う。料理や古武術に限らないことだけれど、感覚を楽しんだり、それを言葉にしたり、そういうことをさぼらないほうがいいなと改めて思った。だって今のうちだもの。