文禄、慶長の役 再考


日本には戦国時代の頃から宣教師がやってきていました

1543年 種子島に鉄砲伝来

1549年 フランシスコザビエルが鹿児島に来着している

因みに日本の戦国時代 

1467年 応仁の乱

1560年 桶狭間の戦い

1582年 本能寺の変

1587年 バテレン追放令


1592から1593年 文禄の役

1597から1598年 慶長の役


私は個人的に彼ら白人により日本の戦国時代が起きたのではないのかと言う仮説を抱いています


ここでまた妄想

その当時彼等白人の方々は朝鮮にも行っていなかったのだろうか?と言う疑問

朝鮮でも日本と同じことをしていなかったのだろうか?と言う疑問


1506年 - 中宗反正で燕山君廃位。
1510年 - 在朝日本人の貿易活動等を統制したため、三港で日本人の暴動が起こった(三浦の乱)。
1504年 - 甲子士禍が起こる。
1519年 - 己卯士禍が起こる。
1545年 - 乙巳士禍が起こる。
1555年 - 備辺司設置。
1559年 - 林巨正の乱 (-62年)
1567年 - 勲旧派の終焉。以後、士林派同士の対立が続く。
1575年 - 東人・西人の党争の始まり。乙亥党論
1589年 - 鄭汝立の乱


こちらもこの時代にいろいとありそうです


ココで仮説です

その当時日本と同様に朝鮮も白人により国内での争いが絶えず大変なことになっていたのではないか?

そして朝鮮の親日派の依頼を受けて秀吉公により文禄、慶長の役がなされた

ココから史実です

秀吉公は白人が日本人を奴隷として売買しているのを知ってこれに激怒して

1587年 バテレン追放令を出している

朝鮮出兵はその後であるからこの仮説は充分にあり得ると思う


ココからまた仮説です

しかし戦局は思うようにいかず

残念ながら苦肉の策として

朝鮮の男系の血統が途絶えることを危惧した双方の皆々が

各々同意の元で主だった方々を日本に連れ帰り

そこでその血統をそれぞれにゆかりのある地で

かくまったのがもしかすると長州と薩摩の田布施では?



そうなると文禄、慶長の役の捉え方が全く異なってくる

果たしてどうなんだろう?



あと、朝鮮の方々のÝ染色が東アジアにおいて特殊らしい

南米の様に欧米人の痕跡はそこにみられないのだろうか?



因みに同時代の中国の明はどうなっておるのかと言うと

1508 このころ陽明学(王守仁)完成
1510 寧夏の安化王、乱を起こす。劉瑾殺される
1517 ポルトガル人広東に来る
1519 寧王反乱し、王守仁(陽明)平定する
1523 大内氏の遣明使節が寧波付近を荒らす
1528 王守仁、両広の異民族を平らげ、帰途病没。トゥルファン入寇し、ついにハミを放棄
1530 北京に天壇・月壇などを建立
1537 ポルトガル人マカオに植民を始める
1540 このころより「一条鞭法」の施行始まる
1541 安南都統使司を設け安南国を支配する。モンゴルのアルタン・ハンの入寇始まる
1550 アルタン・ハン、北京を包囲
1552 フランシスコ・ザビエル、広東に没す
1553 王直、倭寇を率いて沿海地方を侵す
1555 倭寇南京を侵す
1557 アルタン・ハン入寇。胡宗憲、王直を誘い出し殺す。ポルトガル人のマカオ居住を許す
1563 アルタン・ハン、遼東を侵寇。戚継光ら福建に倭寇を破る
1566 アルタン・ハン、遼東を侵寇
1567 国初以来の海禁政策を緩める
1569 海瑞、応天巡撫となり江南の地主を抑圧
1570 アルタン・ハンと和し、順義王に封ずる。このころ『西遊記』完成
1572 万暦帝即位
1575 スペイン人広東に来る。ハルハ部、遼東に侵入
1578 張居正、全国的に土地丈量を始める。『本草網目』完成
1579 万里の長城の西部を修築
1582 マテオ・リッチ、マカオに到着。アルタン・ハン、張居正没す
1583 女真のヌルハチ挙兵し、遼東を侵す
1587 『万暦大明会典』成る。東林書院復興
1592 モンゴルの降将ボバイ、寧夏に反乱を起こす。豊臣秀吉朝鮮に侵入、明、朝鮮に援軍派遣(この二大征を播州の乱とともに万暦の三大征という)
1593 女真族、ヌルハチに統一される
1594 戸部主事の顧憲成削籍される(東林党議の始まり)
1597 播州の土司楊応竜、乱を起こす。鉱税の害起こる
1601 蘇州で「織傭の変」。マテオ・リッチ、北京に天主堂建設
1602 『坤輿万国全図』刊行
1606 『幾何原本』刊行
1611 東林・非東林の党争激化
1616 ヌルハチ、後金国を建てる
1619 サルフの戦いに明軍大敗。後金、遼東を制圧
1620 7月、万暦帝死去。9月、紅丸を服用した泰昌帝急死
1622 徐鴻儒の白蓮教徒の乱、山東に起こる
1624 オランダ人台湾を占領し根拠地を設ける
1626 ヌルハチ死去
1627 崇禎帝即位。魏忠賢磔刑に処せられる。各地で農民反乱起こる
1631 李自成、農民反乱軍に参加
1634 アダム・シャールらの『崇禎暦書』完成
1636 後金、国号を清と改める。朝鮮、清に服属
1637 『天工開物』完成
1639 『農政全書』刊行
1644 李自成北京に入り、崇禎帝万歳山に縊死。清軍、山海関の守将・呉三桂を降し、その先導により北京無血占領、清の中国支配始まる
1645 南京陥落、福王捕らえられる。李自成自殺
1661 南明の永明王ビルマで捕らえられる


こちらも1517年にポルトガル人がきてから極めてきな臭くなってますね

1575年スペイン人が広東にきてから更に酷いですね

内乱が頻発しているところへ 

文禄、慶長の役の1590年代へと移っていくわけですね

1624年には台湾をオランダ人が占領してます

明も第二次世界大戦前の清のように文禄、慶長の役の頃既に欧米の傀儡になっていたというようなことは果たしてなかったのでしょうか?

その後に残された歴史と言うのは勝者である欧米が都合よく書き換えていると言うことはあり得ないことでしょうか?

みなさんどう思われますか?










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