見出し画像

書くためだけに、4泊5日遠野へ行く

遠野。東京から、4時間。片道1万3000円。1月の氷点下。4泊5日。参加費、じゅうごまんよんせんえん…

迷う理由はいくらでもあった。

なのに、案内を終わりまで読んだらもう、申し込む以外の選択肢がなくなっていた。

いや、嘘。ちょっとかっこつけた。本当は、申込フォームの送信ボタンを押す間際まで悩みました。

でも結局、わたしはボタンを押した。そのしばらくあと、申込受付の連絡をもらい、参加費も振り込んだ。

明日から、4泊5日、岩手県の遠野市に滞在する。文章を書く、ただ、それだけのために。

「書くワークショップ」へ

参加するのは、西村佳哲さんが主催する「書くワークショップ β5」

西村さんとのファーストコンタクトは、昨年。noteの投稿や日記でも何度か触れている、『駒沢の生活史』だった。

ここで西村さんから「ひとの話をきくこと」「書くこと」の手ほどきを受け、その時間がとてもよいものだったので、主催されるワークショップにもぜひいつか参加したいと思っていたのだ。

そんな折、西村さんのTwitterでこの「書くワークショップ」開催の旨が告知された。

行きたい。しかも、テーマが「書く」こと。これ、行くしかないやつだ

ドキドキとはやる気持ちでnoteのリンクを開く。まず目に入ったのが参加費用の数字だった。決して安くない。ぐっ、とお腹を殴られたような気持ちで、それでも読み進めていく。

綴られる、ワークショップが開かれるに至った経緯。あたたかい空気を指先に感じるような、過去開催時の写真。

やっぱり、どう考えても行きたい。頭の中には、ワークショップ参加を見送るべきという考えがぽこぽこと浮かぶ。けど、心には「行きたい」以外の思いがなかった

贅沢な選択?

最大の懸念点がお金

参加費と宿泊費、合わせて15万4千円。往復の交通費も込みで物理的に払えない金額ではない、けど、充分苦しい。このお金を支払ったら、今後やりたいこと・行きたい場所のいくつかは確実に我慢しなくてはいけなくなる。

会社員の頃なら、ここまで出費に痛みを感じなかっただろう。しかし今のわたしは、勢いあまって会社を辞めてしまった限界フリーランス。そのうえ、バイトもしていない。

会社を辞める辞めないの瀬戸際で適応障害を患っていたこともあり、「どうせ会社を辞めたなら、いっそとことん自分のやりたいことにだけ時間を使おう」という、愚直な方針を掲げているためだ。

その結果、去年稼いだ金額は、途中までもらっていた会社の給与を除くと東京都の最低生活費ラインを大幅に下回ることとなった。しかもこれは確定申告前の額なので、消費税と所得税をひいたら、実入りは切なさで鼻水が出るほど少ない。

さすがにこのままではまずいので、年が明けてからは少しでも評価とか新しい仕事、つまりお金になることに取り組んでいきたいと考えていた。

その中の選択肢には、実利的なライティングのスクールやセミナーに投資することも含まれる。たとえば、そのスクールの卒業生コミュニティで仕事を紹介してもらえるとか、あるいはスクール自体がメディアを持っていてそこで書かせてもらえるとか。

けれど、西村さんのワークショップは、そういうものとは毛色が違うだろうという気がした。

フリーランスにとって、自分の時間はすべてお金に変わる可能性をもっている。その時間を使って、資金が潤沢なわけでもないわたしが、今この「書くワークショップ」に行く意味って??

今じゃないんじゃないか。身の丈にあわない、贅沢な買い物をしようとしているんじゃないか。

なのになんで、わたしはこんなに行きたいと思ってしまうんだろう?

西村さんによる投稿の文章を何度も読みなおす。

自分の中に向けられる問いは、次第に、なんでわたしはこんなに書きたいんだろうに変わっていった。

わたし、このまま書いていていいのかな。

なんでこんなに書きたいんだろう。子どもの頃から何度も何度も、立ててきた問い。

noteをよく使うひとになら、わかってもらえるんじゃないだろうか。

人生のあるときからふと、文章を書き始める。気づいたら書いている。日記、エッセイ、旅の記録、物語。書いたものは、人にみせると褒められる。中学生の頃に原稿用紙800枚ほどの小説を書いて、出版社で本にしてもらう経験もした。

こんなに書いているんだから、わたしはきっと書くひとになるんだ。

そう思っていた無邪気なあの頃の、倍くらいの年齢になった。なのにどうして、私はいまだに自分のことを「書くひと」だと言えないんだろう。

名刺にはライターと書いているし、わずかながらもインタビューしたり記事を書いたりしてお金をもらっている。

けれど、自己紹介するときには「駆け出しで…」とか「一応ライターみたいなことしてて…」と逃げ腰の枕詞で濁しがちだ。本業として活躍している方々には遠く及ばないと自覚しているのもあるけど、それと共に、違和感がある。

自分の胸の裡《うち》をめくっていくと、どうやらわたしが欲しいものはライターという肩書ではないのだ。

わたしの「書きたい」は、いくつもの欲が複雑に絡み合って形を成している。

楽しいからずっと書いていたい。
誰かを書くことで力づけたい。
自分だけの世界を書いてつくりたい。
特定の物事について、書きながら理解を深めたい。
すばらしいものを、書いて世に伝えたい。
書くことで、お金がほしい。ほめられたい。

それはまるで、すっと一本まっすぐにたつ竹ではなく、根っこがぐちゃぐちゃに絡まっているマングローブ。だからこれまで、物語、詩、エッセイ、日記、記事、コピーライティング……と、色々書きものに手を出してきた。

その中で、「記事を書くライター」という立場がたまたまわたしにとって手を伸ばしやすかった。そういうことなんだと思う。

今、ライターですと名乗ることは誇らしくもあるし、苦しくもある。たとえるなら、冒険の旅に出たはいいけど、出発してからもう何日も暗いトンネルを歩いているような気持ち。行く先は間違っていないんだろうか。この先に光はあるんだろうか。そもそも旅に出てよかったんだろうか。

わたし、このまま進んで、このまま書いていて、いいのかな。

何を得られるかわからないのに、15万円ものお金を出して、書くためのワークショップに行く理由が本当にあるのか

申込が完了したあともこの悩みは続いていて、なんならつい数日前まで気持ちがぐらついていた。なんとか答えを見出そうと、ワークショップの案内や西村さんから届いたメールを繰り返し読んだ。

そしたら、気づいたことがある。

何かを得るためじゃなく、「楽しむ自分」を求めて

ワークショップの案内で、西村さんはこんなことばを書いている。

それはともかくですね、「読ませる書き方」とか「書くことで自分の内面を見つめる」たぐいのプログラムとは違うと思います。
「わかち合う」とか、「そもそも〝書ける〟ってどういうことなんだろう?」という感じ。なによりも本人が書いて楽しく、読んで面白いのが最高だなと思っています。

https://note.com/lw_nish/n/nc0b08c01f44f

書いて楽しく、読んで面白い。

「ああ、これだな」と気付いたのは、何回目に読んだときだろう。

マングローブの根ように絡まりあったわたしの「書きたい欲」。その中で、もっともシンプルなのが「楽しいからずっと書いていたい」だ。

小学校の教室で、ノートの下に隠した原稿用紙。そこに文章を書き始めた。ただ授業を聞いているより、そっちのほうがずっと楽しかったから。

わたしはずっと、評価とかお金とか地位とか肩書とかコネとか、ぜーんぶ取っ払ってあの頃の自分に戻りたかった

その欲求を刺激されたから、わたしは「書くワークショップ β5」に惹かれた。

15万4千円。払ったお金は、稼いで帰ってくるお金には直結しないのかもしれない。でもそれでいい。売れないフリーライターには贅沢な買い物だろうか、でもわたしが、わたし自身として、今、この選択を求めている

何かを得るためだけじゃない。ただ、書く。その楽しみに浸るためだけに、わたしは来週、遠野へ旅立つ。


(おまけ)

「金がない、ない」と言っている割に、どうせ岩手へ行くならと、最終日に東京へ戻らずその足で盛岡へ行くことにした。今のところホテルと帰りの新幹線だけおさえて、あとはノープラン。人生初のひとり旅。

盛岡のおすすめ、もしあれば教えてください。

いいなと思ったら応援しよう!