【読書感想】人は「プア・リトル・ジョーン」として生きてはいけないのか?〜『春にして君を離れ』
行く春を見送りながらアガサ・クリスティ『春にして君と離れ』のことを考えていた。
推理小説ではない。
麗しい春の話でもない。
「自分は献身的で賢く、素晴らしい妻、母」と思ってきた人生だったけど、本当は形だけ、全部自分のために振る舞い立ち回ってきた。だから本当は 「プア・リトル・ジョーン」…
ずっと傍らにあった深い崖を覗き込むような怖い話だが、
潜在的に感じていた崖を認識したのは、どうしようもなくやることがない時間と空間に放り込まれたからだった、という所がさすがクリスティ、鋭い洞察だ。
仕事や人間関係や楽しみに時間も手間も取られているうちは、人は逃げ続けることができる。見ないでいることができる。
春にして君を離れて、どうしたのか、を考えるとこのタイトルにとても哀しく深い意味を感じる。
しかし、
そうやって生きていてはいけないのか?
最近はそう思ったりもする。
人は、浅はかに、迷惑をかけたりかけられたり、偉そうにしたり、バカにされたり…「プア・リトル・ジョーン」として、ぼーっと生きていてはいけないのか?
「プア・リトル・ジョーン」によって「不幸になる夫や子供」っていうのもどうなんだろうかと思う。彼らもまた浅薄な「犠牲者の形」に流されただけなんじゃないか?
彼らはジョーンに構わず各自生きていって良いのだが、
「ふざけんな、出ていってやらあ!」とか言っちゃってもいいし、「そうは言ったけどやっぱ母ちゃんには心配かけた」とかいう態度があってもいいし、「あーはいはい、おかーぴんはそういう人だもんね」と済ませて、適当に愛してもいいはずなのだ。
ロドニーだって、恋はともかく、仕事は、自分の責任に置いて好きなようにしたら良かったと思う。妻が許さなかったから、取り合ってくれなかったから出来なかったというのはポーズで、彼は最初からそんなこと出来なかったのではないのか。本当にその仕事がやりたいのなら「君は好きに手伝ってくれたりぶら下がっていてくれて構わない。僕も好きに僕であろう」と言ってお互い適当に仲良くしていくこともできたはずなのだ。
しかしそれをせず「プア・リトル・ジョーン」の犠牲者になることで、
人がとても孤独で哀しいと彼ら家族の間に決めてしまったのは、ロドニーなんじゃないかと思う。
誰のことも理解せず、諦められ置き去りにされ、軽薄に一生を終えることを、哀しく虚しく思うのは、何かの罠という気もする。
原罪だの適応障害だのに導いていく、繊細で神経症的な、余地を許さない何か。
だけど、「プア・リトル・ジョーン」であることを、どうしようもなく哀しく、苦しく思うことは確かで、
このどうしようもない気持ちをどう扱うのが適切なのか、分からないんだ…
そんなことを考えたりした。