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実母介護 心の軌跡 vol.1

「そろそろ、1人の生活は無理になってきたかな。」

久しぶりで会った弟は、ポツリと言った。

弟は、遠方に住んでいるため
私たちが会うのは、年に二、三回。

半年ぶりに実家に一泊し、
久しぶりに母を一日観察し

近くに住んでいる私と
実家で合流した時の

第一声がそれだった。


弟は、帰り際に私に改めてつたえた。

「まず火のことが心配、
毎日線香あげて拝むからね。やめろと言っても止められないし」

「薬を飲んだり
飲まなかったりするようになったし、
いよいよ1人で暮らすのは難しいと思ったよ。」


久しぶりで会い客観的に見た眼で
そう判断するのだから

いよいよきっとそうなのだろう
と納得する

というのは、表向きで、

内心は、

やっと弟も納得してそういう思いになったのか
とほっとした

というのが正直な思いだった。

介護する関係において

実の母親と娘の関係性は

義理の親に比べ

感情面のコントロール
は、はるかに難しくなる。

さらに親の認知が入ってくると
昔とは違うんだと分かっていても、

いつしか理想と現実のギャップが広がり、
毎日のように同じやりとりの繰り返し

まさか、このぐらいはわかるはずだ、
娘が困ることぐらいはわかるはずだ

というような幻想から抜け出られない。

理解しない、通じない

なぜ?という

ジレンマ地獄に入り

世話する側の体力と精神が疲弊し

いつしか

1番身近にいるものが心まで病んでくることにもなる

同じようなことで、悩んでおられる方は少なくないのではなかろうか。

「もう限界を超えた、たすけて」

と叫ぶような気持ちになってから

私の場合はどのくらい経っていただろうか?

少なくとも半年以上は経っていたと思う。

このままだと、自分も親もダメになるし、不幸になる。

それでも何とか持ちこたえてきた。

自分の感情に目隠しをして
何とか耐え忍んでいたともいえる。

母の介護に対して、
全面的にお金を出してもらっている
弟への心苦しさもあったから

さらにお金がかかるかもしれない可能性がある
他の方法や

施設にお世話になる選択肢などは簡単には言えないでいた

というのが、正直な心情だ。

弟が十分に納得した上で話をするのが筋だと思っていた。

 さらに、母からすると
まだまだ1人で暮らしていけるし、
施設など行きたくない

という強い気持ちがあったことが、
わたしが自分の感情に目隠しをした大きな理由だったと思う。

母には、何かと言えば、娘よりも早くに駆けつけてくれる親切なご近所の助けがあり、

週に3回来てくださり食事の準備や身の回りの世話をしていただく訪問介護

週に3回通うデイサービスなど
たくさんの人にお世話になって、

やっと1人で暮らしているという自分の現実は見えていない。

1人でやっていけるし、自分は何でもできるから何の問題もないと思い込んでいた。

いや、むしろ母はそう思っていたかった
のかもしれない。

そのような
私にとって苦しい状況の時期


助けを求めるべく
信頼のおける認知症の先生に母と受診することになった。

義母の介護時代に
大変お世話になって、数々の難題に悩む私に救いの手を差し伸べてきてくれた先生。

専門医としての実績も非常に高く
たまたま私の住んでいる地方にご縁があって、

東京から毎週
診療に通って来てくださっている素晴らしい先生だ。

いつもは完全に患者側の立場を理解して支える姿勢を貫く先生が
珍しく、単刀直入に私に問いかけた。

「認知症の方に対して、その方の思いを尊重するというのですか?」

その問いかけに、私ははっとした。

母の思いを尊重しなければいけないという呪縛が
客観視された瞬間だった。

「そうか、認知症の母なのであるから
最終的には、私が決めるのだ」と
心の中でつぶやいていた。

母は、「先生、私の状況はどうですか?
そんなにおかしいでしょうか、私はこんなにきちっとできていますし、1人で立派にやってます」と問いかけた。

「立派ですよ。大丈夫」と答える先生に

「だから、私はずっと1人で暮らして良いのですよね」
と、畳み掛けるように言った。

「このような話は、私が決めるのではありませんよ。あなたが決めるのでもありません。

お世話している娘さんと息子さんが決めることです」ときっぱりとおっしゃった。

母は自分の思惑と違う先生の答えに帰りの車の中で非常に憤慨していた。

私は、先生から明確な答えをもらったことに対して、

自分の考え方の呪縛に光が刺したように
解放された思いだったが、

そうはいうもののまだまだその呪縛は、完全に消えたわけではなかった。

私と弟と母の3者の思いが、
ある程度は歩みよったタイミングで

どのようにするかは決定される
という考え方におちついていった。

少なくとも、年末に帰ってきた弟は
私と気持ちの上で同じ場所にいた。


にもかかわらず、
私は母に認知があることを承知の上で

母が身の行く末にある程度納得してから施設にお世話になるということにこだわった。

施設に行くとしても
母に多少の理解は得たい
という気持ちを捨てることができなかった。

苦しいと、つぶやきながらもこの矛盾を簡単には収めることができなかった。

自己の限界を感じつつ
ギリギリ待とうとした
自分がいた。

弟は来年の5月の連休で戻るから、
その時に施設に入ることを考えよう
そう言って帰っていった。

つづく

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