バタイユから見た「子ども」、「至高性」に関するジル・ド・レとカフカの共通点
バタイユの言う「子ども」を持ったものとして挙げられる人間で、私が共通性を見出したのは、ジル・ド・レとフランツ・カフカである。
「子ども」というのは社会規範や有用性から開放された純粋で無垢な存在で、それはバタイユが理想とする「至高性」に近い。
カフカは父親から除名された者として、子供っぽさの中に留まることを欲した。それは、父が代表する目的中心的な、生産的な世界の外で文学をする自由を追求すること、つまり純粋な無益さを追いかけるという、現在の欲望を優先する目的地のない逃走なのだ。
ジル・ド・レもまた、キリスト教の事物化された神というニーチェの言う「粗雑な回答」、虚構の「至高性」に囚われており、それから逃走するためにキリスト教における異端的背教行為、並びに降魔術や男女両性の児童たちとソドムの方法に従って自然に反したる罪悪行為を犯したのではないか。
しかし、ジルの悪魔崇拝はキリスト教への反逆ではあるが、キリスト教でいう「悪魔」という存在を信じて行っている時点で既存のキリスト教的価値観に囚われているので、「至高性」には至っていないのではないかという見方もある。
だが、ジルはキリスト教どころか人間としての規範から外れた残虐行為や蕩尽や供犠、散財という有用性や合理性を超えた行為によって封権的な「至高性」に至っているのだ。 バタイユ著の『文学と悪』には「文学とは、ついに再び見出された子どものことである」とある。
ジル・ド・レの悲劇をバタイユは意図的に文学作品のように書いている。 大衆から憐れまれながらも怪物性を失わないジルは、カフカの「子ども」に近い。
一方カフカは父親の生産性からの逃走である文学によって「至高性」である「子ども」に至ったのだ。 ニーチェとバタイユが欲していた「至高性」は、既にこの二人の「文学」、「子ども」が至っていたのである。
バタイユによれば文学は死の疑似体験を上演するために「わざわざ作り上げられる虚構」である。 それは有用性や生産性からは程遠い、「至高性」を意味する。
カフカとジル・ド・レの存在はニーチェやバタイユのいう「至高性」の再肯定であり、語り得ないものをいかに語るのか、というテーマに対する回答なのだろう。 カフカは文学という生産性から外れた言語によって、ジルは残虐行為という非合理的な行為によって、バタイユにとっての「子ども」となったのだ。
参考文献
後藤 佑美『「ジル・ド・レの悲劇」における「子ども」』
林 宮玉『至高性の語りとしての文学 バタイユのカフカ論を読み解いて』
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