![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/96351237/rectangle_large_type_2_4a69a5ee75306d263f7d8b3325ff2ffe.png?width=1200)
救済の技法―自己受容と自分を愛するということ―
障害の発覚と受容
24歳で躁うつ病(双極性感情障害Ⅱ型)—以下躁鬱と表記—と診断され、
25歳で知能検査WAIS-Ⅲを受けた結果、発達障害と判明しました。
診断され病名というレッテルが貼られたところで、私の生きにくさが
変化するわけではないと思っていました。しかしながら、病名がついたことによって、似た状態の先人たちの叡智を利用できるのではないか。そしてそれとは別に、自力で内省を行い自分自身で障害も私を構成する一部分であると受容したいと考えました。主な手段として、我流の哲学的思考を用いました。具体的方法は、一人問答が主な手法でした。
例えば障害受容の場合は下記のような脳内問答によって障害特性との折り合いをつけました。
私A「社会人になるまで発達障害が顕在化しなかったのはなぜ」
私B「幼少期に武道(柔道)の世界観をインストールして、善く生きることや精神性を高めることが美しいと感じるようになった。そのため発達障害的なそわそわや不注意を精神力でねじ伏せ、マスキングしてメッキをかける能力を手に入れた。社会に出てストレス環境下ではマスキングをする余裕がなくなり、発達障害的特性が出てしまうようになった」
A「それって辛くなかった?」
B「辛かった。でも他人の内面世界は見えないので、他の人たちも私と同じく一生懸命に精神力で”普通”を演じているのかと思っていた。しかし、どうやら多くの人はもっと楽に生きてると最近知って驚いた」
A「気づきが得られて良かったね。診断が下ったので適切な服薬と無理のない範囲での精神力によるマスキングを行って生きていくしかない。幸い私は言語性IQは高いのだから、それを武器に戦おう」
約1年休職をしたことがあり、その期間を用いて上記のような手法を用いて障害を自分の一部分として認めてあげる受容に到達することができました。
受容ができたので、傾向と対策を一人問答によって模索しました。
A「全能感と衝動性が高まる。診断によると躁鬱と発達特有のものらしい。なんとかしたい」
B「診断が下る前から自覚なき発達障害だったはず。これまでは精神力でねじ伏せていたが、診断されたことで障害を言い訳に衝動に身を任せ過ぎでは」
A「病名や手帳すなわちレッテルは免罪符ではない。戒めのものとして取り扱い、なるべく”普通”に行動しよう。欲求と衝動に身を任せると破滅してしまう」
B「確かにそのような病状にある。これは取り除けない私を構成する要素なのでは」
A「ならば、自制しつつ全能感や衝動性が頻繁に生じる自分も受け入れたい。そのうえで傾向を見つけて対策をとるべきだろう」
B「具体的には?」
A「必要最低限の現金しか持ち歩かない。クレカ決済は通販以外で用いない」
A「全能感や衝動性が発生したら頓服薬も飲もうね」
以上のような内面世界でのやりとりを重ねて、障害特性つまり困った状態に向かってしまう傾向を察知、自力で対処できるようになってきました。
図_1オレンジ部分が一人問答作業に該当します。
![](https://assets.st-note.com/img/1674522373730-bm5r0mjTFH.png?width=1200)
生きにくさ、生きていてもいいと納得する技法
僕はここにいてもいいのかも知れない そうだ。僕は僕でしかない 僕は僕だ。僕でいたい 僕はここにいたい! 僕はここにいてもいいんだ‼
生きていてもいい理由を見出すことができずに、躁鬱混合状態と鬱→躁への移行状態でそれぞれ1回ずつ未遂をしました。そして当時同棲していた彼女に多大なる迷惑をかけてしまいました。母には、私が次にそれを実行したら後追いをして、地獄の果てまで永遠に追いかけて咎めると言われました。それはおっかないので、私が生きていていい理由、ここにいていい理由を内省して見つけ出しました。脳内議事録全文を載せるとあまりに長いので、大筋を下記私Aと私Bの対話及び図_2にまとめました。
B「私には生きている価値があるのだろうか」
A「なぜそう思う?」
B「周りに迷惑をかけてばかりだから」
A「迷惑をかけながら生きることは必ずしもいけないことなの?」
B「支えてもらいながら生きていると言い換えることもできる」
A「ならば、支えてもらった対価として私の持っている何かを提供すればいいのでは?」
B「それを行えるのであれば少し楽に生きられるかもしれない」
A「そもそも、生きることに意義は必要なのか?」
A「草花も家畜もケモノもみんな生きている。彼らは生きる意義を考えながら生きていると思う?」
B「思わない。ただ生きていて次の世代に命をつないだり、食べ物の形になり私の血肉になったりしている」
A「じゃあ、彼らに生きている価値はある?」
B「生きる意義/意味を考えて生きているとは思えない。ただ、生命そのものに価値があるという気がしてきた」
B「つまり、私は生きてここにいてもいいんだ!」
![](https://assets.st-note.com/img/1674522524970-OZekCXyiPh.png?width=1200)
自分を愛する技法
障害受容と自分が生きていてもいい理由を発見して初めて、自分を愛する準備が整います。私にとって、自分を愛するということは大変困難に感じたので、〈受容ができたので自分を愛せる〉の対偶である〈自己受容ができずに自分を愛せない〉を証明することによって自分を愛する技法を模索しました。
自己受容ができずに自分を愛せない。この状態は等身大の自分を見つめることができていない状態だと言えます。往々にして、自尊感情は小さく、それに反してプライドの肥大化が生じているケースがあります。かつての私自身もそうであり、また発達障害や精神疾患当事者同士の自助グループに参加してみたときにもボロボロの自尊感情と肥大化プライドを抱えている方が少なからずいらっしゃいました。私は勝手に、中島敦/山月記 状態と呼んでいます。
李徴はプライドの高さ故に、自分の才能が高くないということを認められず身の丈に合ったプライドの拡大収縮を行えなかったのだと思います。常にプライドはパンパンに膨らんでおり、しかしながら実力が伴わないためプライドに傷がつきます。その結果として自尊感情が傷つき、自分自身を責めたり他人を妬んでしまったと推察できます。この状態では自分を愛する心の余裕が生まれることはありません。
以上が〈自己受容ができずに自分を愛せない〉です。
この対偶が〈自己受容によって自分を愛せる〉なので、自分を愛することは可能だということになります。
一方で、自己受容ができた場合は等身大の自分が見えてくるようになります。背伸びや巨勢を捨てて、身の丈に合ったプライドの拡大縮小を行い、メンタルへの”当たり判定”を最適化します。すると、過度の精神的ダメージを負う頻度も少なくなっていきます。その結果、傷ついた自尊感情/自尊心の回復が生じて自分自身をやさしい目で見ることができるようになります。自己受容によって、自分の得意不得意をありのままに観察して、その全てが自分を構成する要素であると素直に納得できるまで内省を行います。ある深度以上に到達すると、少しづつ「私はダメなところもあるけれど、なんとなく好きなところも見つかった」と思えるようになっていきます。
限界なときに有効なリラックスの技法
HPもMPもないとき
無理せずに”何もしない”をしましょう。暖かい飲み物と落ち着ける音楽
lofi beats Tokyo LosT Tracks -サクラチル- long mix - Bing video
をちょっといいヘッドホンで聴く+ホットアイマスクを組み合わせるとリラックスできます。折り畳みできるリラックスチェア(図_3)を用意して、
そこに座る=考え事は持ち込まずリラックス状態になれるという条件反射を作ってしまうと幸福度が上がります。
![](https://assets.st-note.com/img/1674525000864-yz2Bqfip7z.png?width=1200)
HPはあるがMPはないとき (図_4)
筋トレや自転車等、体を動かす。降りたことのない駅で降りて散歩するなど、初めてのことをやってみる。(くらがりチャレンジ) カメラを持って散歩することで、普段なら見逃してしまう景色や状態を探しながら歩くため新鮮な気持ちで街歩きができる等。能動的に動いてみるとスッキリできます。
![](https://assets.st-note.com/img/1674525557588-3hykuV5TPT.png?width=1200)
まとめ
自己分析を行い受容をする。
受容ができて初めて自分を愛することができる。
生きていくことに理由はなくていい。有ればそれは幸せなこと。
リラックス/リフレッシュ状態になれる方法を持ちましょう