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『僕はビートルズ』を読んだ『セックスピストルズ』を読んだ 漫画というやつだ

今さらだが『僕はビートルズ』を全巻読破した。高田馬場の楽器屋兼工房アストロノーツギター、アストロノーカじゃないよ、ここにはバンドを題材にした日本の漫画がほぼ全て揃っており、昨日ベースのオーバーホールを依頼したついでに漫画を読もうと思い、気づいたら10巻すべてを読み切った。約2時間、修理の依頼も終わってるのに勝手に居座った。嫌な顔一つせずにソファーに座ることを勧めてくれた店員さんは素敵だ。

あらすじは調べればわかりますが、ビートルズのコピーバンドで売れていたメンバーがビートルズデビュー前の1961年の日本にタイムスリップし、ビートルズの曲を自作曲と偽って世に出して本物のビートルズに出会う・新曲を出してもらう・超えてもらうなどを目的として活動していくというストーリーです。

作品全体を通して「オリジナルであること」というテーマが存在している。コピーバンドとオリジナルの対比の構造が、歌手と作家という1960年前後の日本の芸能文化、レコード会社とプロダクションという商慣習、敗戦国日本とロックの本場英米、日本で英詩を歌うこと、という全ての対比構造に通念として存在しており、それぞれの登場人物がそれぞれ思い描く"オリジナリティ"を手に入れようと葛藤し、世界に対してぶつかっていく。レイは作品を生み出す精神こそ優位でオリジナル>コピーという構造を根に持ち、マコトはその精神でコピーを超えていきオリジナルがコピーに対峙することを願い、主人公はコピーの中にある自分自身の良さが評価された時(それが1961年に出会った女性と恋愛をすることとリンクしている)に快感を覚える、そういう様子が描かれていて、社会情勢というリアルに、ほかのモブキャラも含めてオリジナリティを渇望する者としての登場人物を存在させることでより鮮明に浮かび上がってくる景色が印象的だった。芸事を志した人には絶対にどこか刺さるものがあり、それをまとめあげてくれる終盤の急な登場人物のセリフもよい。個人的には、曲には作られた土地の息遣いが宿るという考え方と、それが物語の骨子を担っているのが好きだった。

この作品が町山智浩をはじめとするビートルズに熱狂した人たちからとても批判されている。いわんとしてることはわからなくもない。ただ、クイーンとかでもそうだけど、ビートルズを愛しまくっている人の、ビートルズカバーやビートルズコピー人間がそれだけでお金を稼いでいるというシステムに対しての寛容さはすごい。彼らにとってビートルズは青春で、そこに自分の青春を投影させられる限りずっと誰かにやっててほしいものなんだろうか。だからこそその構造自体をいじった本作は「ビートルズへの冒涜だ!」と映るのか。帰りの電車でビートルズを何作か聴き直したけど、11年前と同じでBack in the U.S.S.R.とHelter Skelterしかハマらない。

大学時代に所属した軽音楽部は"完コピ"主義だった。オリジナル曲もやれる環境ではあるが、そういう雰囲気ではない。曲を作るために四苦八苦するなら曲の練習に時間を割いた方がいい、そんな感じ。だがそのおかげもあって基礎的な演奏力は高く、とびきり下手な人はいない。部全体が底上げされている。自分はその底です。他大の人に「あんなに上手い人ばっかなんだからオリジナルやればいいのに」と言われたこともある。当時はコピーに対して真剣になることに明確な答えを持ち合わせていた気もするけど、なんて言ってたか忘れてしまった。でもコピーでもかっこいいものはかっこいいと思っているし、クソみたいなオリジナル曲をただオリジナルというだけで評価するのは間違っているとも思う。コピーの凡庸性とオリジナルの粗悪さ、その両方の悪いとこどりみたいな人もいますね。

先日久々にバンドメンバー募集サイトにログインし、プロフィールを修正してバンドの音源とかを載せてみた。すると数名から「素敵なベースを弾きますね」というお褒めの言葉をいただいた。「上手い」よりも「曲がいい」、「フレーズがいい」、「プレイがいい」と褒められることの方が嬉しいと気づいたのは社会人になってからだ。

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