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【 中学受験生たちを見て思う事と、自分の真っ暗な学生時代の6年間と、自分の半生の長めの記録。タフに生きること 】

文章と備忘録。
【 中学受験生たちを見て思う事と、自分の真っ暗な学生時代の6年間と、自分の半生の長めの記録。 】


年が明けて、寒さも深まる1月や2月。
電車の中で、Nの文字がデカデカとつけられた青い色バックを目にすると、ちょっと複雑な気持ちになる。
中学受験予備校・『日能研のNバック』。
日能研のNバックはその塾に通っている小学生に支給されている通塾カバンだ。

自分が小学校の高学年の頃、無駄に成績がそこそこ良くて、何かを勘違いして履き違えてる親に騙されて日能研という中学受験予備校に通い、その青いNバックを背負っていた。
勉強はかなりハードだったな、と今でも思うし、自分自身は私立中学に行きたい気持ちはあまり無かったけど、結局流れで千葉県の中高一貫校の御三家の一つとか謳われる学校に受かって進学してしまった。

このことは幸か不幸なのか、もう分からない。もう一回人生やるんなら絶対に進学校の中高一貫校には行きたくないけれど。

その私立中学は、端的に客観的に見て、そもそもこの自分自身にはキャパオーバーになるくらいの進学校だった。医学部薬学部系の大学の附属の中高一貫校であり、通っている同級生はほとんど親が有名大学を出てる大企業や教師や医者の子供だった。

自分の親2人は四年制大学を出て無くて、短大出身で学歴に非常にコンプレックスがあって、子供はいい学校に入れて可能性を広げさせたい、みたいな事を言っている親だった。馬鹿だよねぇ。
(余談だけど、自分の名前の意味には、「あきらかにすぐれている」みたいな意味で付けたらしくて、ほんとかなりの親バカすぎるな、って思っている。)

私立の中学生活は最初の頃は、まあ順調だった。
自分は小学校の頃に、すごく仲良かった親友や片想いしてた人と陸上の長距離走をやっていて、どこかそれを追うようにして、中学と高校は陸上部に入部して長距離走を続けた。1500mや3000m、5000mを部活では走ってた。毎日、部活で10キロぐらい走っていた。
中学高校の学校生活にほとんどいい思い出は無いけど、その中の例外と支えが中学高校をこの陸上部の仲間たちと過ごしたことだった。
自分の中学高校の陸上部はそう人数は多くないけど、みな育ちが良くて人がいいタイプの人たちが多くて、いい部活だったな、と今も昔も思っている。

中学生の学生生活で、成績は中盤の下の方から真ん中あたりへを始めの頃まではキープできた。けれど、途中から中学2年の終わり頃かな、英語がそもそも始めから苦手だったけれど、どう努力してもテストの点が取ることが出来ずかなり苦労してた。
自分の中学は英語に関しては、ほぼ毎日、英語のライティングの小テストがあって、皆んな通学してる電車の中で単語帳を開き単語や英文を丸暗記して、難なく小テストをクリアして、一学期に一回、1人15分ぐらいの英文スピーチを自分で作って発表する、みたいな中学校だった。
そんな中で、自分が一番今まで勉強したのは英語で間違いは無いのだけど、でも、その中学と高校の中で英語は中学2年の終わりから高校3年の終わりまで必死に勉強して赤点スレスレをキープすることしか出来なかった。
小テストの出来も悪く、放課後も追試で残されたり、課題の結果に、英語教師に机を蹴られたり、制服の胸ぐらを掴まれそうになったり、怒鳴られたり、まあ、色んな事があった。もちろん全部いい思い出ではない。

同級生からもよく、自分の英文を書いて写していて勉強してたノートを取り上げられて、「トリゴエって、どうしてそんなに努力はしてるのに駄目なのか不思議だよな。見ていて可哀想になってくるよ」、
みたいなセリフを言われて、失笑や嘲笑うような事が頻繁にあった。
認めたくは無かったけど、それはイジメだったんだな、って今は思う。

はっきり言って、このいわゆる、頭のいいだけの私立の進学校に通う子供の8割は親が金持ちで学歴が高くて、親から勉強の才能だけを受け継いで、その鼻持ちならさで育てられたような、人の痛みが分からないし想像もしないクソ生意気なガキみたいなヤツばかりだった。

そして、今思えば、そこまで程度は重くはないかも知れないけれど、
自分は軽い英語の学習障害だったのかな、とも思う。
他の教科は標準的に出来るんだけど、教科の中で英語だけがなぜか異様に出来なかった。
何回勉強しても、何回書き続けても、英語の綴りというものをほとんど覚えることが出来なかった。

親も自分の成績の下落振りにはなんかとても落胆したみたいだった。小学校の頃に成績が良くて、自分の子供が有名な中高一貫校に合格できて勝手に舞い上がってたんだろう。
何度となく家でもなじられるような怒りをぶつけられて叱られ続けながら育った。

「せっかくいい環境にいるのに、自分に甘えてる」
「おまえ、は俺の息子として最低の出来、だ」とか、
本人はこの言葉を言った覚えなんてもう忘れてるんだろうけど、そんなふうな色んなことを言われて、もう自分はこの人たちのために生きなくていいな、とある種、そんな諦観と決別心さえ持った。
そして、自分の居場所はここ(自分の親や家族)の中には無いんだな、ってことを何処かに感じてた。

英語は読んで理解して設問問題は出来るんだけど、ライティングや英作文はほぼまったく出来なかったから、どう頑張っても30点から20点の赤点スレスレをキープするのがやっとだった。

そして、中学3年の頃、大嫌いだった担任の英語教師にこう言われたことがある。
「おまえ、ちゃんとしないと、あの時勉強すれば良かったって一生後悔することになるよ」

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そういうのが、自分の中学から高校まで続く6年間だった。人生で一番真っ暗で陰鬱な時期だった。
そんな風に、クラスの中で見下されて馬鹿にされながら過ごして、教師から自分を否定されてなじられて、家でも親から叱られ続けて育って、まともに自分を保てるわけもなかった。
中学3年の終わり頃と高校2年の終わり頃、今思えば鬱病だったんだな、と思うけど、ほんとうに精神的に追い詰められていて、
歩いていてもフラフラ、フワフワしてて地面に足が付いている感覚が無かったり、自分がどこを歩いてるか分からなかったり、帰りの電車で急に涙が止まらなかったり、放課後に学校の鉄骨の非常階段の一番上の7階まで登って暗くなるまでそこにいて、2回ぐらい本当にもうここで死んじゃおうかな、なんてそんな事を真剣に考えたりした。
切実に、この現実をなくして、何処か違う、遠い遠い場所に行きたかった。

自分を踏み止まらせてくれて、支えていてくれたのは、一つの言葉と物語だった。

村上春樹の「海辺のカフカ」という本だ。

中学3年の15歳の頃に初めて読んだ、村上春樹の長編小説。
中学高校の一貫校に通う、15歳の少年が父親からの呪いを拒絶し、四国に家出をして色んな人に出会い、自分の生き方を考える話だ。

『ねえ、君は想像力を欠いた人たちになんか負けちゃいけない。君は世界で一番タフな15歳になるんだ。』(意訳・要約)

小説「海辺のカフカ」で、繰り返し繰り返し告げられるように、励まされるように語られるセリフ。
そんな言葉にね、本当に心から支えられていたんだ。今でも書いていて、涙が出るほど。
自分の15歳から18歳まで。ほんとうに。

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記憶、というのは一種の呪いだ。
今でも、英文スピーチを発表できなくて頭が真っ白になる夢や、英語のライティングや英作文のテストで教師に叱られてなじられる夢をよく見る。
汗をびっしょりとかいて目覚めて、学生時代が終わって、今、社会人であることに心から安堵するのだ。

想像力のない大人たちは、自分がしてきた生き方以外の生き方を絶対認めないし、見下してるし、
弱い立場の人の痛みや気持ちを鑑みたり思いやるみたいなことなんて絶対にしない。
頭の良さは生まれ持った一種の能力であり、頭の良さと人間性の良さは全然違っていて、時折り極端にそれが反比例してる人たちもいる。
学歴が高くて、自分の子供を毛並みのよい進学校に通わせているような教師や医者や大企業の親は、"そういう進学校"に子供を通わせて、自分達みたいな"そういう大人"にさせることを一番正しい生き方で正しい子供の育て方だと思っている。
別にそれは否定はしないけど、そういう大人たちによって作られているこの社会の基本構造が、ほんっとうに自分は醜いと思う。
そして、ブルーカラーとして社会の下支えをして働いている人たちの事を上の層の人たちは見下して小馬鹿にしながら生きている。
社会の二極化ってそういう事だ。

中学受験とか、将来優秀な大学や優秀な大企業とかに子供を入らせたい親のエゴとか、ひずんでいる価値観の進学校の教師とか、そういうのが自分は心底嫌いだ。
頭の良さや学歴や肩書きをひけらかすような醜い大人たちを自分は一生嫌いだし許すこともないだろうな、と思う。

そして、そんな憎しみをどこかに抱えて生きていきていることを自分はたまに自覚する。
後悔、といえば、そんなふうに思わざるを得なくなった自分に対してだけ。
あの時の自分はベストを尽くして、そこを乗り切ったんだ。そこには後悔はなくて、揺るがないささやかな自負だけがある。
英語のライティングや英作文なんてことは優秀に出来ないけど、化学とかは得意で、中型トラックやトラクターやフォークリフトとかの特殊車両の運転は得意で、結果的にそういう自分の出来る得意な分野の仕事をできていて、そこに今は自分の居場所がある。

色々あったけど、過去の自分への後悔はない。
過去の自分には、あの時、つらい時だったけど頑張ってくれてありがとうね、っていう思いだけだ。

呪いや影のように、時折り昔の暗い過去の思い出や記憶が自分に忍び寄ることはあるけどね。

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関東の中高一貫校で、12歳から18歳まで過ごした自分はそのあと、どんな風に生きようと思ったのか、
北海道にキャンパスのある大学に進学して4年間過ごして、新卒の就職も北海道で行った。
教師たちの言う様に、いい大学に行っていい会社に入ることが、根本的に自分は出来そうにないのなら、違う土俵や、違う場所で自分は自分の幸せを描いたり見つけて生きていくしかないんじゃないかな、みたいなことを高校3年の頃に考えるようになった。
中学高校、満員の通勤電車でずっと単語帳と睨めっこしてたような生き方はやめて、その時は北海道で農業の仕事をして暮らしたいな、ってそんな夢を持っていた。

大学は東京農業大学という北海道の網走にもキャンパスのある大学で4年間過ごして、富良野の農業生産法人で農業の仕事を3年半していた。
色々あって結局北海道からは離れて、地元の千葉に戻ることになるんだけど、この話は長くなるから割愛する。別のNoteの記事に北海道で暮らした7年間のことは書きたいと思う。

とにかく総じては、北海道で過ごした18歳から25歳までの7年間は、真っ黒な中学高校の6年間を埋めて、自分を再生してくれるような素敵な7年間だった。

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社会は二極化してる。そんなことを今、とてもよく思う。
高齢化過疎化して破綻しつつある地方と、タワーマンションが乱立して加熱する都会。
何世代もいい大学に出ている教育熱が高いエリートみたいな層と、親からまともに育てられず学歴や勉強とかは最初から捨ててる何とかキッズとかDQNと言われてる層。
未来は無いものだと思って、喧騒の騒がしいジャンクな街の中で性を売って刹那的に生きてるキッズと、快楽主義的にお金を持て余す壮年世代の醜い大人たち。
キラキラと映えることをSNSで表示することで承認欲と顕示欲を満たして、顔や容姿だけを着飾り、虚栄まみれの若者たち。
くだらない、そんな社会。

物価や税金はどんどん上がっていくし、こんな社会で子供を作って希望持って子供に未来を手渡そうと思う人は希少になっていくから、少子高齢化は更にすすんでいくし、
そういうのはこれからむしろ徐々に酷くなっていくんだろうな、という感じもする。

そして、都会に住む醜い大人たちが分かったように勝ち誇って、地方で慎ましく美しく生きている人たちが苦境に立たざるを得ない立場を強いられている、この社会の基本構造は変わってない。

社会人生活、北海道でも東京でも色んな街で暮らしたり働いたりしたけど、凋落していく日本のこの社会の現状をほとほとよく感じる8年間だった。

「じゃあ、あなたは何を武器に、何を勝算にこの社会で勝っていくの? 醜いと思う大人たちに後ろ指を指されないで、自分は自分のやり方でそういう人たちに負けないで幸せになっていくの?」
「この社会の中で、あなたはどう未来を描いていくの?」

自分はまだね、そんなことを問いかけられて、試されてる。

でも、少しずつ、自分は自分で叶えるべきこと、生きていたいと思えるこの世界の美しさや掛け値なさを知って、なりたい自分に近づくこと、生きる上で手にしたいこと、を一つ一つ積み重ねてこれているかな、
という思いもある。

そして、少なくとも断言できるのは、今の自分は過去の自分に支えられていて、昔よりはずっと、タフに生きられているな、ということ。

***

冬の時期に、中学受験予備校のバックを背負い電車に乗る小学生を見て、思うこと。

もし自分が18年前の小学生の頃の、中学受験生の自分に声をかけるとしたら、何て言おうかな、なんていうふうに思う。

寒空の下、小さな体に意気揚々とその純粋無垢な瞳をまっすぐに輝かせている彼らを見るとき、
こんなことをね、少し考えるんだ。

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p.s.
ちょっと書き殴って長くなったけど、自分の過去回想と備忘録。
そして、そこのあなた、読んでくれて、ありがとうね。
なかなか無い、変わった半生だったけど、あなたの半生はどう?
ちょっとは共感してくれた所も、分かんないし違うなー、と思った所があったかもしれないけど、
何かでコメントや感想や意見を聞かせてくれると嬉しい。🙏🏻

人それぞれ、持ち物も能力も価値観も考え方も別々だけれど、
色んな人がいるこの世界で、その人なりの過去や思いの上で成り立っている素敵な人間性を持つ人と話して、何かを分かち合ったり、分かり合うことに、
自分は生きる意味をどこかに見出しているし、感じているんだ。

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