[読書記録]マルガリータ(村木嵐) / 生きることと祈ること
私達は歴史を学ぶことで、今ある正義や真実が覆されたり、その幅が狭くなり広くなりと変わって行くことを知っています。今信じるものが明日否定されるかもしれない、信じることは悪だと虐げられるかもしれない。それでも自分が信じた道をどうやって貫くのか、私にはその術があるのかないのかさえ分かりません。
天正遣欧少年使節団とは。強烈な信仰心と生きるための規律の間で、人はどのように振る舞うかを考え、深く心を抉られるお話でした。と同時に強烈なラブストーリーでした。愛って、なんだろう。打ち消そうが否定しようが、ただそこにあって、自分ではどうしようもない、信仰に似たものなのかもしれません。
現代の日本人にとっては、信仰心がなんなのかさえ朧げだと感じることが多くあると思うのですが、戦や病で人の死がすぐ隣にあった時には、信仰心に救われた人達がどれほどいたのだろう、と考えを巡らせました。
ミゲル(清左衛門)様が「たま」に、「マルガリータ」のお話をして、「たまも文を書くときはこの字(真珠の「珠」)を書くといい」というところ。なんという。罪ですわミゲル様。と思いながらぎゅーんとなってしまいました。その時のたまさんの気持ちがどこにもかかれていないところも、なんとも。ただ、ミゲル様の罪は、マルガリータがもう一人いて、そのもう一人である伊奈姫様と、常に同じ方向を見ている、ということを、生涯たまさんも手に取るように知っている、ということだと思います。
それでも、
珠さんの強固で献身的な愛、こんな風に一途に大切な人に身を捧げることをしあわせと思い、そしてそれを生涯貫いてみせ、己の信仰としてしまうなんて。人の信仰はそれぞれの胸にあるものなのだろうとも思えます。
一方もう一人のマルガリータ伊奈姫様も
美しくてこんなにも力強く応援してくださる姫様。またお二人の関係も、珠さんが伊奈姫様から頂いた子供の衣を、
珠さんのどうしようもない真っ直ぐな愛にはときに切なくなってしまいます。
結局のところ、伊奈姫様の想いや清左衛門様の想いはどうでもよいほど、このお二人は同じところを見ていて、そして珠さんの気持ちはお天道様が空にあるということほど当たり前に、清左衛門様のもとにあるのだ、ということをただただ思い知ったのでした。
切支丹への迫害はそれは凄まじいものだったのだということを思い知りました。と同時に、何かを信じる人の心は、どこまでも強いのだろう、ということも思い知ったように思います。
それにしても浅はかな私は、「殉教のための布教」について思いを巡らさずにはいられません。
殉教された方々が、いつまでも光に満たされて、しあわせにいて下さいますように。