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「たいがいのことは自分事」について
こんにちは、とりコレクターです🐣
私生活のバタバタもちょっと落ち着き、久々にコラムを書きたい気分になったので徒然なるままに書いてみます!
今回は、「たいがいのことは自分事」について。
なんのこっちゃ。というと…
皆さん、イライラしたり、心がざわついたり、ってしませんか?
わたしは、ちょくちょくします。そして以前はもっとしょっちゅうしてました。
でも、メンタルを鬱でやられて復活してからは、それがちょっと楽になりました。
なぜなら、
「たいがいのことは自分事」
だと、就労支援(=社会復帰のサポートをしてくれるところ)で気づけたから。
その、メンタルをやられたわたしが学んだ、シンプルでありながら深い英知とは。
人間、快か不快しかない
そう、「好き嫌い」でもなく、「正誤」でもなく、
快か、不快か。
なんですよ。
英語だと、Comfortable or Uncomfortableでしょうか。
いやはや、実にシンプル。
たとえばわたしの場合、↓は快。
・仕事なら、ガイドラインはあるけど細かいやり方は割と自由裁量がある
・人間関係なら、飾らず自然体でいられる(アホなことも言える笑)
・住環境なら、ほどよく都会だけど自然もあるし親しみやすい
逆に、↓は不快
・仕事なら、ガチガチに手順が決まっている or 何も決まっていない
・人間関係なら、背伸びしたり気遣いをし続けたりしなければいけない
・住環境なら、都会すぎる or 田舎すぎる
これって、何が正解とか不正解とかじゃなくて、ほんとに人それぞれですよね。
ただ注意しなきゃいけないと思うのが、
「それっぽいけど実は自分事なだけ」というマター。
たとえば、
・社会のルールは守らなければならない
・人に迷惑をかけることやマナー違反はしてはいけない
一見、とてももっともらしいですよね。
「これは常識であるからして、皆守らねばならぬのじゃ!!」みたいな。
でもこれってほんとは、「ルールを守ること=快」な人の価値観や意見なだけなはずなんですよね。
もちろん、社会的動物である以上、そして社会で暮らしている以上、他者の存在や他者への配慮というのは無視できない事柄ではあると思います。
そして、こういった配慮がゼロになってしまったら、おそらく社会は成り立たない。(特に、このCOVIDが蔓延している世の中では。)
でもおそらく危ないのは、
「多数派の意見や価値観、もしくは『正しそう』な意見や価値観が、問答無用で誰しもに適用されるべきだ」
と思ってしまう思考回路。
繰り返しますが、もちろん今の世の中では他者への配慮は特に求められているとは思いますし、自分勝手にふるまうことを助長したいわけではありません。
でも、
「自分が良いと思うことに、必ずしも他者が賛同しているとは限らない」
という意識もまた、大事なことではないかなと思うのです。
自分がイライラするとき、あるいは心がザワザワするとき。
それはおそらく、
「自分の価値観が揺さぶられているとき、あるいは自分の価値観に沿った行動を他者がしてくれないとき」
ではないかなと思うのです。
つまり、
「なんで皆わたしが思うように行動してくれないの!もう!」
っていうことではないかと。
他者に期待してしまうんですよね、
「わたしが良いと思うことをやって、悪いと思うことをやめて!」と。
特に、家族とか友人とか、近しい人ほど期待値が上がる気がします。
「わたしのことを分かってくれているはずだから、わたしの思う通りに行動して!」と。
まぁそういうわけでもない、というのは文字に起こしてみるとよく見えますね笑
心が揺さぶられるときは、自分の価値観が揺るがされているとき。
そして、その大元にあるのは他者ではなく自分の価値観や考え。
そう思えれば、イライラやザワザワがちょっと楽になるのではないでしょうか。
以上、「たいていのことは自分事」についてでした🎵
ここまでお付き合いいただきありがとうございました🐣!