「好きを言語化する技術」の感想

『「好き」を言語化する技術 推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない』という本を読んだ。
早速だが、この本で最も”好き”な一節を紹介したい。

今はもう好きじゃなくても、いつの間にか自分の一部になっていた 「好き」の感情が保存されている。これって意外と大切なことじゃないでしょうか。

「好き」を言語化する技術 推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない

「感想は自分のために書けばいいんだ」という、言われてみれば当たり前のことに気づかされた一文だ。
だが、私はその当たり前を見落としていた。

これまで、自分の感想を文章に書き起こそうとして、結局少し書いたところで書けなくなってしまう。そんなことが何度もあった。
どうしてか分からなかった。本を読んで感動したときも、ライブで熱くなった時も、何故かうまく言葉にできなかった。

「それは私の言語化能力が低いからだろう」
「作品のバックグラウンドに対する理解が浅いから踏み込んだことを書けないんだ」
だから私は読書で感じた情動や、ライブの熱気をうまく表現できないのだと。

だが、原因はもっと根本的なところにあったのだ。
私は感想を、「他人と共有するため」に書いていた。
だから無意識に”下手なことは書けない”とか、”中途半端な理解では書けない”とか、そんな制約で勝手に自分を縛っていたのだ。

ところが、さっき引用した一文を読んで気づいた。
「感想って自分のために書くんだ!」って。そんなシンプルな考え方が私を縛っていた鎖から解放してくれた。
もちろん、人と共有するために書く感想も価値がある。だが、様々な作品を浅く広く楽しむ私には少し荷が重く感じてしまう。

だってインターネット上には私よりも深く作品を理解した人の感想がゴロゴロ転がっている。
それらを見てしまったら、自分の”他人に見せるために書いた感想”がなんだか稚拙に見えてしまうのだ。

今まで何度も、それが原因で感想をネット上に公開しなかった。
それはこうやってnoteを書き始めてからもそうだ。

でも、自分の「好き」を保存するために書くという考え方は、私の胸にすっと沁み込んできた。
だって、自分の感想を書き溜めていった先にあるのは、自分の「好き」の集合だ。感想を積み重ねて、自分自身の「好き」の記録を作り上げる。
そんなの素敵すぎる。そう思わないだろうか。

こうして記事を書いている今も、私が「好き」だと思った一節と、”どうしてそう思ったのか”という理由が保存されていっている。

私にとってのこの本は、感想を書く技術を教えてくれるものではなく、感想を書くハードルを低くしてくれる本だった。
もちろん、感想を書く技術も書いてある(というか文量的にはそっちがメイン)なので、自分の「好き」を保存してみたいと思ったらぜひ読んでみて欲しい。

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