「世界」を知ろうとすること――「世界」への異和、「世界」への絶望 山本芳久『アリストテレス 二コマコス倫理学』
■山本芳久『アリストテレス 二コマコス倫理学』2022年5月1日・100分de名著(NHK出版)。
■有隣堂町田店・ ¥600にて購入。
■テキスト・長篇評論・入門書。
■2022年4月30日読了。
■採点 ★☆☆☆☆。
【目次】
3-4 『進撃の巨人』における、「世界異和」と「絶望」. 13
1 「素読(すどく)」ノスゝメ
例のごとく、例によって、素人の戯言なので聞き流して欲しい。哲学史の「て」の字も、アリストテレスの「ア」の字もさっぱり分かってない。
にも、関わらず、何故、書き、また何故にそれを公表するかというと、――無論、誰も読みやしないが、それはまた別の問題であるが、何も大真面目に学問的に考察しようと思っている訳では全くなく、哲学や科学や政治思想や社会現象すらも、文芸批評の対象になり得ると思っているからである。いや、むしろ、それが幸か不幸か判断できぬが、哲学も現代科学も、言葉で表現されるものは多かれ少なかれ、文芸批評の影響下にあると言って過言ではない。それは、結局のところ、その対象となるもの・ことを、「この」「わたし」は「どう」「読んだ」のか、という「解釈」の問題に帰結するからだ。 かつて、そう述べたのは文芸評論家の三浦雅士である*[1]。
こう思ったのは、他でもない。偶々、奇縁? 機縁? により、ついこの春からジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』*[2]刊行100年とのことで、コンピュータ・ネットワークによる読書会*[3]、というよりも講義に近いとは思うが、それ(ら)に参加することで、――これらは主催者側が素人を広く受け入れるという姿勢が強く出ているのだが、素人が素人なりに素人の思い付きの考えや意見を述べるというのは楽しいことだと気付いたからだ。
『ユリシーズ』と言えば、難解というよりも、難読というのか、多くの読書好きと自認する者たちでも挫折を余儀なくされた高く立ち塞がる文学的高峰ではある。そういう点からすれば主催者側の姿勢も理解できる気がする。
それはともかく、実はその読書会で流行しているのが、ジョイスを如何に読むかという方法を簡単に示した、一連の「〇読」という言葉、方法論である。いわく、徹底的に調べて読む=「調読」*[4]、原文に索引を掛けて読む=「索読」*[5]。なるほど、ジョイスほど徹底的に自らの作品とその言葉にこだわった作家であれば、確かに有効な、というよりも、一回通読しただけでは、当然のことながら、理解出来得るものさえ、理解出来なくなってしまうに違いない。その意味では、ジョイス、取り分け『ユリシーズ』というテキストは、否応なく学問的な、学者的な読解を要求していることは間違いないと思う。
いや、いや、しかし、しかし、わたしはこうも思う。――繰り返し言うが、あくまでも素人の戯言である。
それでいいのか? と。
無論、結局のところはインターネットで調べたり、辞書や事典を引いたり*[6]、原文に当たったり、検索を掛けたりするのではあるが、これから言うことは相当当たり前のことなのだが、実は文学作品の読解がその典型なのかも知れぬが、最初に、そのテキストを読むときの姿勢、というか第一印象こそが最も大切なのではないだろうか。
これをして、わたしは「素読」と名付けた。「そどく」ではなく「すどく」と読んで頂きたい。したがって、これ以降は常時「素読(すどく)」とルビを振ることになる。素読(そどく)と違うのか、というと無論、違う。素読(そどく)は昔の寺子屋などで行われていた漢文の学習法で、意味が分かろうか、何だろうが、暗記するぐらいにその原文を読んでいると、やがて意味が実感として理解できるようになるというもので、これはこれで、現代でも価値のある学習法だとは思う*[7]。時間がかかるので、学習者は嫌がるであろうが。
わたしがここで言おうとしているのは分ろうが分かるまいが、とにかく、最初に読んだときの感触、印象、異和感をよく覚えておいて、それを元にして、調べたり、検索を掛けたりしないといけないのではなかろうかという訳だ。この問題は別稿にて触れたい。
2 これは自己啓発本か?
こう述べたものの、自らの不勉強ぶりについては潔く認めたいとは思う。
さて、前置きが長くなった。いずれにしても、「実際」? の、「真実」? のアリストテレスの姿については、わたしには分らない。その前提の上で、以下の感想、というか印象を書き連ねたい。
正直、このテキストは、少なくとわたしには面白くなかった。それが単にわたしの理解力不足や予備知識のなさの故であるのか(まー、そうなんだろうな)、アリストテレス自身の哲学そのものに理由があるのか、あるいは筆者・山本芳久に起因するのか、それはわたしには判断できない。そもそも、放送用に事前に執筆されたテキストなのだから、放送を視聴して、その内容とも合わせて検討すべきものなのであろう。しかし、いささかならず不満が残ったのは事実だ。
つまり、漠然と予想していたアリストレス像とはかなりかけ離れているものだったのだ。それは、例えば、山本の本来の専門がヨーロッパ中世の神学者・トマス・アクィナスである、というところにあったかというとそうでもない。恐らく山本は一般の視聴者・読者にはこの内容でよいと判断したのか、あるいは、実際、山本には、アリストテレスはこう映っているのであろう。
要は、余りにも自己啓発本寄りなアリストテレス像になっているような気がしたのだ。いや、実際にこうなのかも知れない。だからこそ、2000年以上も時が経っても、その価値が失われることなく読み継がれているのだろうから。
また、自己啓発本の類いを否定している訳ではない。それはそれで充分意味はあるのだと思う。ただ、その種の書物は、例外もあるであろうが、「現実といかに折り合いをつけるか」というところに焦点が当たっていて、言うなれば、世界を変えることよりも自分を変えることに焦点が当たっている気がする。自分を変えることによって、世界を変える、と言えば聞こえはいいが、わたしに言わせれば、自分を変えて、一体どうするのか、とさえ言いたい。
無論、哲学や思想の位相はそこにはない、はずだ。
したがって誰も悪くない。むしろ、皮肉交じりに文句を言うわたしがおかしな客だということになろう。
以上のような次第で、本書についての感想、印象は以上になる。
3 「想像上」のアリストテレスについての感想
3-1 プラトンとの切断
以下は、本書とは別の、わたしの「想像上」のアリストテレスについての感想のメモのようなものである。
1 なぜ、アリストテレスは哲学を志したのだろうか?
2 なぜ、アリストテレスは万学を志したのだろうか?
3 なぜ、アリストテレスの哲学は体系的なのだろうか?
4 なぜ、アリストテレスの哲学は2000年もの間に渡って、強い影響力を持ちえたのだろうか?
というのは、プラトンの著作がいいか悪いかは一旦措いておいて、それらとアリストテレスの哲学、著作との間には重大な溝、切断があるように思うからである。
多くの人びと、若者が、道に迷い、その答えを哲学や宗教や、あるいは文学に求めようとする。加藤周一が日本においては文学作品が、哲学の代行をしていたと、確か『日本文学史序説』*[8]で述べていたと記憶しているが、それは、無論それなりの理由があるとは思うが、あるいは洋の東西を問わず、多かれ少なかれ、言える事実ではないかとも思う。
つまり、悩んだ挙句、何とか道を開こうと、哲学の門を敲いたとしても、その悩みとは雲泥の差とも言うべき高い壁が聳え立ち、悩む者の心を折り伏せる。苦しんでいるのに、何をさらに好き好んで、訳の分からない文章を読む必要があろうか。投げ出して当然である。
その意味で言えば、哲学の文章の難度を上げたそもそもの始まりがアリストレスにあるとするのは無理があるだろうか。
それに比べれば、実際に理解できたかどうかは別としてその師プラトンの著作は、特別な訓練や、特殊な知識がなくとも、読み通すことはできる。場合によっては中学生でも読めるぐらいだ。
それは、対話体で読みやすいということもさることながら、文学的とも言うべき面白さ、味わい深さを持っていると思われるが、ところが、アリストテレスに始まる、いわゆる哲学の文章は、とにもかくにも、難解で、まずもって、読書の喜びが味わえない、ということに尽きるかと思う。無論、そこを耐えて、じっくりと時間をかけ、予備知識を補給しつつ、読み・解くことで、哲学の文章の面白さを味わうこともできるのであるが、そもそもの目的がそこにはない(と感じられる)ので、あえなく挫折、ということになるのである。
なぜ、そうなってしまうのか。
明治以来の流れで言えば、訳文の問題、つまり、誤訳、文章の稚拙さ、翻訳者の理解不足なども、その理由に挙げられるかも知れぬ。言い換えれば原文は悪くない、という考えだが、無論、そういう面も全く否定できないが、それだけではないだろう。
やはり、専門用語の使用、文章の晦渋さによるものという側面は否定できない。哲学の文章はかくあるべしとの規範を、意図せずして、作ったのが(作ることになってしまったのが)、アリストテレスに他ならないという訳である。
無論、我々が現在読むことができるのは、公刊を企図していたものではなくて、彼の遺した、自身のための講義ノートだということなので、この問題をアリストテレスに帰するのは見当違いだという意見もあるだろう。
しかし、結果論的にであれ、後世に与えた影響を考えると、講義ノートであろうと、いや、むしろ、講義ノート故に、彼の本音、本心が吐露されてもいるはずだ。
3-2 体系性・網羅性の罠
とりわけ、ここでわたしが問題にしたいのが、その「体系性」と、「網羅性」である。要は「世界」を網羅的に、つまり、その全てを、体系的に説明し尽そうという意図の表われである。
それの何が問題なのか。
世界を全て知りたいというのは、一旦理解できるが、それを「体系的」に説明しようとする、その瞬間に世界はその言葉からすり抜けていくのではないか。つまりは体系の中に所属しないもの、所属できないものは、この世界に存在しないことになる。
あるいは、我々の思考が、またその社会が、またその倫理や、政治すらも体系的であって、それ以外ではないことになる。そのような世界を作ったのが、アリストテレスの哲学の体系性、あるいは、その文章、言葉だったのだ、と言ったら言い過ぎであろうか。
しかし、体系性を持たない、例えばヴィトゲンシュタインの哲学が平易なのかというと、全くそんなことない。この世界で、従来存在しないとされてきた思考を顕在化、言語化しようとすれば、――本人自身が理解できていないことのそれなので、必然的に難解になってしまうのは言うまでもない。 そもそも近現代の哲学の文章と比較すれば、アリストテレスの文章は、むしろ平易な方である。
しかしながら、我々はやはり、プラトンとアリストテレスの切断、――認識論的切断*[9]ならぬ、方法論的切断に思考を至らしむる必要があるかと思うのだ。
無論、ここにはより精密な議論が必要とされるのは言うまでもない。イスラームの受容と、そこからのヨーロッパへの回帰、キリスト教神学との合流、そして、近現代の哲学、あるいは文学への重大な影響など議論すべきことは山とある。
3-3 根を喪うこと/世界との和解
さらに言及しておきたいのが、アリストテレスの網羅性と、彼が哲学を志した理由についてである。この問題は表裏をなしているように思う。彼の伝記的な事実は正確なところは余り知られていない。しかし、彼が若年の折、両親を亡くし、故郷を追われた/捨てた/後にした、言うなれば「故郷喪失者」、言うなれば「根拠を失った者」、「根無し草(デラシネ)」であったことは、間違いない。その祖師、あるいは師である、ソクラテス、プラトンがアテナイに所属して、アテナイの中で、その位置を確立し、そこで一生を過ごしたことを考えると、まさに雲泥の差があると思われれる。
その彼が、――彼と同じような状況に置かれたものの全てのものがそうなる訳ではないのは言うまでもないが、その彼が、世界に異和を覚え、その世界に対する異和の理由を徹底的に理解/理会したいと思ったのも分かる気がする。
つまり、アリストテレスの哲学とは、世界と和解しようという全的な試みではなかったのか、と勝手に推測する。
3-4 『進撃の巨人』における、「世界異和」と「絶望」
全く文脈を逸脱することになるが、諌山創による長篇漫画/アニメイション作品である『進撃の巨人』*[10]について一言触れておきたい。
100年前、突如謎の巨人に襲われた人類はその居住地を高層な壁で囲い、そこに閉じこもったが、再び巨人に襲われることになった。人類の世界はその壁の中にしかない。言い換えればすべての人類はその壁の中にしかいないことになっている。
主人公エレン・イェーガーの幼馴染であるアルミンは亡父が残した書籍から、世界がその壁の外にも存在し、そこには砂漠も海も広がっていることを知り、いつか巨人を倒したら、壁の外へ出て、世界を見ることを夢見、それをエレンたちに語る。やがて、苦渋の経験の後に、壁の外に出て、海を見たアルミンたちは感動するが、何故か、一人エレンだけは浮かない顔をしている。その後、彼は一人暴走するような形で、彼らの住むパラディ島の人々以外の人類を滅亡に追い込もうとする。
世界の真実を知りたいと思う、純粋な希求と、それに向かって行動し、その果てに、世界の真実を知ってしまった後の絶望的とも言える決断。
3-5 結語(のようなもの)
無論、アリストテレスと同じだとは言えない。全く次元の異なる話だ。
しかしながら、彼が故郷を離れてざるを得なかったときの、世界の秘密を知りたいと思ったときの何らかの世界への異和感、はたまた、最晩年に長く慣れ親しんだアテナイを放逐されたときの絶望に我々は思いを馳せる。
そして、そこにアリストテレスの2000年にも及ぶ影響とも言えるけれども、まさに「呪縛」のようなものを、少なくともわたしは感じずにはいられないのである。
【主要参考文献】
『ウィキペディア(Wikipedia)』. (2022年4月3日 (日) 17:46 最終更新). 「ルイ・アルチュセール」. 参照先: 『ウィキペディア(Wikipedia)』.
アリストテレス, 渡辺邦夫(訳), 立花幸司(訳). (2015年ー16年). 『二コマコス倫理学』上下. 光文社古典新訳文庫.
ジョイス ジェイムズ, 丸谷(訳)才一, 永川(訳)玲二, 高松(訳)雄一. (1922年/1996年-97年). 『ユリシーズ』. 集英社.
加藤周一. (1975年ー80年). 『日本文学史序説』上下. 筑摩書房.
監督 荒木哲郎(第1期)肥塚正史(第2期-第3期) 林祐一郎(第4期). (2013年-2022年). 『進撃の巨人』. WIT STUDIO(第1期 - 第3期) MAPPA(第4期).
諌山創. (2009年9月9日 - 2021年4月9日). 『進撃の巨人』全34巻. マガジンKC(講談社).
三浦雅士. (2002年). 「読書と年齢」. 著: 岩波文庫編集部編, 『読書のたのしみ』. 岩波文庫.
三浦雅士. (2012年). 「木田元はなぜ面白いか」. 著: 木田元, 『ハイデガー拾い読み』. 新潮文庫.
山本芳久. (2022年). 『アリストテレス 二コマコス倫理学』. 100分de名著(NHK出版).
田村 章. (2022年4月1日). 「レオポルド・ブルームの地理学――『ユリシーズ』第4挿話について」. 『22 Ulysses―ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』への招待』第5回.
田多良俊樹. (2022年3月4日). 「第2挿話―階級、教育、植民地性」. 『22 Ulysses―ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』への招待』第3回.
柄谷行人. (1983年). 『隠喩としての建築』. 講談社.
6735字(17枚)
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📓ノート
l 悪は、善の観点のもとにでなければ愛されることはない。すなわち、ある点において善いものであり、そして端的に善いものと捉えられるかぎりにおいてでなければ愛されることはない。 (中略)そして、不正によって、何らかの善――たとえば快楽や金銭やそういった類のもの――が獲得されるかぎりにおいて、 人はこのような仕方で不正を愛するのである。 (トマス・アクィナス『神学大全』・本書p.p.41-42)
l カントの立場はシンプルです。幸福につながるか否かにかかわらず、人間として果たす義務があり、また、人間としてやってはならないことがある。そういうことを考えるのが倫理学だというわけです。そのような仕方でカントは、自らの義務的倫理学を展開していきます。(本書p.44)⇔アリストテレスの目的論的倫理学(p.15)
l 徳は生まれながらのものではない(p.61) 🖊そうなのか?
l ものにはそれ自身の「固有の場所」がある(p.62)
l 徳は技術のように修練で習得できる(p.63) 🖊①であれば、敢えて徳と呼ぶ必要はない。技術で充分ではないか? ②なぜ、同じような活動が反復できるのか? 強制なのか?
l 倫理は共同体の問題(p.71) 🖊倫理は文化・共同体による強制によるものだ(p.74)。
l 徳(アレテー)の解釈は合っているのか?
*[1] [三浦, 2012年]
*[2] [ジョイス, 丸谷(訳), 永川(訳), 高松(訳), 1922年/1996年-97年]
*[3] ①「22Ulyssesージェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』への招待」全22回開催・2022年2月2日から12月16日までon lineにて実施・発起人:田多良俊樹、河原真也、桃尾美佳、小野瀬宗一郎、南谷奉良、小林広直、田中恵理、平繁佳織、永嶋友、今関裕太、宮原駿、湯田かよこ、新井智也。
②「2022年の『ユリシーズ』―スティーヴンズの読書会」全18回(?)開催・2019年6月16日から・現在はon lineにて実施・主催者: 南谷奉良・小林広直・平繁佳織。
*[4] [田多良, 2022年3月4日]
*[5] [田村, 2022年4月1日]
*[6] と、書きながら、今手元には一冊の辞書も辞典もないことに気づいた。10数冊あるはずの辞書や10数巻の事典は全て実家に置きっぱなしである。何ということであろう! 辞書・事典の類いは旧宅のわたしの机の真横に設置していてすぐさま手に取れるようにしていたが、そもそも、この種の原稿のようなものすら、もはや机では書かない。今は、台所のテイブルの上で、コンピュータ上に書いているのだから。時代は変わった? のか。
*[7] 素読(そどく)の重要性については、多くの論者が語っているが、例えば三浦雅士はとりわけ「十代の読書は暗誦にある」 [三浦, 「読書と年齢」, 2002年]として素読(そどく)の重要性を述べている。
*[8] [加藤, 1975年ー80年]
*[9] 「マルクス主義ヒューマニズムには、若きマルクスの疎外された主体性の奪還というテーマですべてを語ろうとするきらいがあった。そうではない。マルクスのもっと重大な発見は、別なところにある。若きマルクスはその時代の学問的風潮に未だ捉われていたのであり、『ドイツ・イデオロギー』を境目として、真に彼独自の思想が展開されるのだ。アルチュセールはそう考えた。これが、「認識論的切断」のテーゼである。」( [『ウィキペディア(Wikipedia)』, 2022年4月3日 (日) 17:46 最終更新])。ルイ・アルチュセール『マルクスのために』1965年/1994年・平凡社参照。
*[10] [諌山, 2009年9月9日 - 2021年4月9日]、 [監督 荒木哲郎(第1期)肥塚正史(第2期-第3期) 林祐一郎(第4期), 2013年-2022年]