「越境」 の習作
ある日、気がつくと、一人ぼっちでした。周囲のどなたも私の言葉を理解していないし、私だって彼らが何を言わんとしているか、分からないのです。今まで何の疑いもなく「通じている」と思って生きていた自分が信じられなくなりました。私は、「世間」という名の、私の理解を絶する言語システムの中に飛び込んで、息子が母親である私の言葉に聴き従うように、世間の言葉に従い、言葉の意味するところやコミュニケーションの作法を学びました。「学ぶ」とは「真似る」から派生した言葉だといわれています。二歳の息子が口にする「ごめんちゃい ♪」にちっとも気持ちが入っていないように、私が世間から借りただけの言葉はウソくさくて白々しかったでしょうけれど、とりあえず真似から始めること、それしか出来ませんでした。それまで「私」が使っていた言葉や使い方を放棄することで、「私」はひび割れ崩れ落ち、別のそれらを採用することで、新しい「私」が出来上がっていきました。
「実家」から「世間」へ、「子供」から「女性」へ、「大人」へ、「嫁家」へと、私は故郷としていた前者の世界を棄てて、後者の世界へと移り、そこの住人となりました。
2008/1/17(木) 午後 6:03
恋を失い、恋に落ち、出会うたび、失うたび、「私」は軋みます。
もし、彼とのコミュニケーションを望んだのなら。
そうして破壊と創造を繰り返し、変容を遂げていく。
私たちは、そういう風にできているはずです。
2008/10/2(木) 午前 7:37
・・・そんなんを現在無と還った某ブログに書いていた頃、数年後に息子が学校に行けなくなったという理由で一家で「越境」を果たすとは、まさか思っておりませんでした、えぇ。
「不登校」が、そこまでドロップアウトだったとは。
私は奇人変人でも、息子は利発で面白いだけのまともな子なんですけれど。
眺めながらお紅茶をいただいております。
「珈琲が好き」と「紅茶が好き」ではイメージが異なりますが、断然珈琲党だったのに、最近ブラックコーヒーを受け付けなくなってしまったのです。
胃が痛くて。
ミルクの入ったコーヒーなんて、ブラックコーヒーじゃないし。
シュガーは論外です。
高級なお紅茶が香水を口から摂取するごとく美味なことも一応存じておりますが、コーヒー・・・あ、今飲んでいるのはティーバックの紅茶です。
ホントは「お」とかつかないヤツです。
あ、元気です。
コーヒー飲みたいだけで。