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学校の怪談

国語が道徳と揶揄される小学校において、作文もやはり「選ばれたのは道徳でした」。

学校作文なる綴り方において、自己表現を目指すのは既にやらかしであると私が知ったのは、小4の時です。
「私は、いつ、どこで、誰と、何して、こう思いました。」と連ねる作文に飽き飽きした私は、果敢に自己表現を試みましたが、いつも花丸しか寄こさない担任からの「もう、ちょっと、こう・・・」という、赤ペンを入れるに入れられないとでもいいたいような戸惑いのコメントを見て、まるっと「私は、いつ、どこで、誰と、何して、こう思いました。」という型通りに書き直して再提出し、ハイ、花丸をもらいましたとさ。
さらに道徳的であれば「選ばれる」のも分かっていましたが、分かっているから尚の事そこまでは出来ないのが、少女であった私の良心でした。

子どもも大人も、自己表現を認められれば自己肯定感を得、自己表現を貶められれば傷つき、自己表現を封じられればくさります。

他人が求めるところを洞察し、その求める通りに振舞い、褒められることを当たり前にしてしまった優等生の自己否定感は、侮れません。
承認欲求、承認欲求と揶揄されますが、多くの人は他人の承認を求めるのみでは振り回されるだけで、自己の表現を他者に承認されるという両輪を持ってようやく、満たされます。

なかには、自己表現さえ出来れば、他者の承認は不要という方もいるかもしれませんが、「自己満足」や「マスターベーション」という名前は、そういう在り方にこそ相応しいでしょう。
おそらく、ストーカーって、自己表現のみで回って相手の気持ちはあんまり不要の人のことです。

「言葉」に関していえば、私たちは脳内で作文をするとき、「誰か」に語りかけています。
相手が誰かによって刻々と変化する言葉の世界において、相手不在の自己表現は成し得ません。

もちろん、美術だって、音楽だって、科学だって、そのほか人間のworkと呼ばれるほとんどが、自分を、自分以外の誰かに捧げているものですよ、というのも、おっしゃる通りだと存じます。


さて、本題に入ります。
こういうことを言うと、私の方の正気が疑われますので、怖くはありますが、試しにというか、思い切って、言ってみようと思います。
コレ、どうせ、「小説」のタグをつけたフィクションのカテゴリーですし、分かってホラを吹いていると思われて済むでしょう。

お気付きの方もいらっしゃると思いますが。
世の中には、表現されることを希求する「自己」が、まるで空っぽのような人々が存在します。
私の知る彼らは、「作文」はお得意のようです。
人並み以上に、饒舌で、雄弁です。
多くの人が言葉を失うような状況であっても、ブレも躊躇もない「作文」を語ることの出来る彼らは、非常時においてはカリスマ性を放つほどです。
それがつまり、「葛藤」という働きを生じさせる「自己」を持たない、ってことなんですけれどね。
ブレない彼らは「反省文」の作文は出来ても、「反省」以前の「内省」という働きも持ちません。

彼らが学校の先生であれば、反省しているからこそ反省文が書けない子どもや、ごめんで済まないと思っているから「ごめんなさい。」を口に出来ない子どもを理解することは出来ません。
逆にいえば、反省文を書けば、「ごめんなさい。」を言えば、事は終了と、素でそれ以上でもそれ以下でもないのです。
「遊びでやった。」「悪気はなかった。」という子どもの言い訳をむしろ擁護するのも彼らです。
彼らも子どもと同様、悪気は全くありませんから。
人を傷付けることを、愉しい遊びと感じていることが問題だ、罪悪感がないのが問題だ、という話は彼らに通じません。
幼いときは「遊びで」「悪気なく」してしまう行為についても、人と人との間で経験を積んでいくなかで、人の痛みを知り、してはいけないことは分別していくものですが、彼らの分別は、ちょっと違っているようです。

彼らはけっこう子どもを誉めます。
ここぞ、これぞと目をつけ、子どもを特別に誉め上げることもあります。
おそらく、かつて子どもだったご自身が誉められたことが「原体験」になっているのだと思われます。
「自己」という拠るところを持たない彼らが、誉められることによって「承認」という拠るところを得た瞬間があったのでしょう。
だから彼らは、ご自分の属する学校という組織に対して、非常に忠実であります。
学校といわず、世の中にある権威やルール全般に対して概ね忠実です。
それらを守るためには、冷酷と思われる仕打ちも厭いません。
厭わないというか、「自己」を持たない彼らと、組織・権威・ルールの間には、折り合いをつけるべき矛盾や葛藤が生じることがそもそもないのです。

組織・権威・ルールから求められる「作文」を得意とする彼らは、「言葉」は知っているが、その「響き」を知らないとも言われます。
「声」を持たないともいえるでしょう。

そろそろ彼らの正体を明かします。
サイコパスとか、ソシオパスとか呼ばれる人々です。
私の見立ては、本で説明される彼らとは少々違っております。
実は小学校の先生にけっこう彼らが多いというのも、私の見立てであり、他の誰かがそう言っているのは見聞きしません。

しかしそもそも、サイコパスやらソシオパスやらなんて本当にはどこにもいない、というのが世間をまかり通る常識であるのなら、私はオバケの話をしたに過ぎません。
オバケの存在を証明することはできません。
オバケの話をする私は、何も話していないのと同じことです。

《と、ここまで書き、お盆中に上げるつもりでしたが、発熱と身体の痛みで断念。彼らの悪口を言うことに、私自身が葛藤したダメージか、あるいは彼らからの縛り・呪いに私が抵抗したダメージか。》


以上、学校の怪談でした。 


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