カレーと、岡本かの子

私が生涯で一番美味しかったと憶い出すであろうカレーを出していたインドカレー屋さんは、三年程で閉店した。
インド的?美貌を湛えた日本人の店主は、長年ホテルに勤めていたことを納得させるオールバックのヘアスタイルと接客でいらっしゃった。
始めは日本人とは思われない調理人ニ三人を雇っていたが、一人減り二人減り、まもなく店主がホールから調理までをまかなうようになった。
店主が作るカレーの方が味が安定して美味であり、一気にファンとなった。
幼児だった息子と店に行った覚えがあるのだから、最後にあのカレーを食べてから、もう、十年は経つだろう。
息子はナンだけつまんでいたっけ。
敗因は、カレーにパワーがあり過ぎたこと、と思っている。

美味しい。
とっても、美味しいのだが、喰らう自分に元気がないときは、喰い終えるととにかくどっと疲れている。
油脂やスパイスによる胃もたれとは異なる疲れを感じた。
なのでそれを物理で云うのとは別次元の、パワーとか、力とかと呼んだ。

カレーと私、どっちが喰うか喰われるかの勝負である。
私が勝ったときには、カレーのものであった大きな力を私の身に得ている。
敵の咀嚼、消化、吸収を遂げたのだ。
カレーが勝ったときには、私の生命力はカレーに奪われ減っている。
回復のための休養が必要となった。

バカな勝負を繰り返している感はあったが、例えばもっと優しいカレーに浮気などすると、私が欲しいのはこれじゃないとかえって思いが募り、またあの土俵に舞い戻り、またあのカレーに挑んでしまうのであった。

しかし、閉店してしまったのならしょうがない。
おそらくカレーは私以外の客にも勝ち続け、結果、相手がいなくなってしまったのだ。

岡本かの子のテキストも、私にとってそういう相手である。
そして一度も私が勝ったことなどない。
読むと躰が重くなり、寝付いて起きても疲労が取れない日が続く。
睡眠導入には使えても、睡眠には使えない。
薬とは概ねそういうものだと理解しているが。
岡本かの子を薬にする力は私にはなく、毒にしかならないともう躰が分かっているのに、何度もふらふらと吸い寄せられ呑んでしまうそれを、まさに毒と云うのだろう。

『花は勁し』『金魚撩乱』の二作品は特にお気に入りで、その毒にも慣れてきたかもしれないと思うほど、何度も読んでいる。
でもってぶっちゃけ、件のようなお話である。
だからそういうものなのだと、催眠にかかるように信じ込んでしまったのかもしれないが、さて。


昨晩、私は、よせばいいのにまたふらふらと岡本かの子を読みたくなり、しかし手元には一冊も置いていないので(その程度にはバカじゃない。というか、呪いのアイテムみたいでコワイんだもの)、pcで青空文庫を開いた。
長文は読みにくいので短いテキストを漁ったが、なんと、

私は自分が人と変わっているのにときどきは死に度くなった。

なんて、かわいいことをおっしゃる一文を見つけた。
岡本かの子でもそんな、そんなことで死にたくなったりするとは、しかも”ときどき”ってリアル。
”人と変わっている”という自覚もあったのね。

桃のある風景(青空文庫) というテキストの一節だった。
一平と結婚する前の、娘時代のことを振り返ったエッセイである。
以下、ちょっと貼っておく。

私は自分が人と変わっているのにときどきは死に度くなった。しかし、こういう身の中の持ちものを、せめて文章ででも仕末しないうちは死に切れないと思った。机の前で、よよと楽しく泣き濡れた。

 後年、伊太利フローレンスで「花のサンタマリア寺」を見た。あらゆる色彩の大理石を蒐めて建てたこの寺院は、陽に当ると鉱物でありながら花の肌になる。寺でありながら花である。死にして生、そこに芳烈な匂いさえも感ぜられる。私は、心理の共感性作用を基調にするこの歴史上の芸術の証明により、自分の特異性に普遍性を見出して、ほぼ生きるに堪えると心を決した。
 ――人は悩ましくとも芸術によって救われよう――と。

”よよと楽しく泣き濡れた”って(笑)。
冗談にならないほど徹底的に業が深いだろうのにそう言うところとか、やっぱり、スキですね♥


この記事が参加している募集