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7月20日 ロボットが人間の代わりに働く時代……『PLUTO』に描かれる崩壊した労働環境

前回

 ここからは『PLUTO』から離れるので、章を改めましょう。作品の感想文、というより「雑感」です。

 『PLUTO』の時代、労働環境は崩壊している。ロボット技術が進歩し、人間が働く必要はなくなった。人間が働くよりも、はるかに低いコストでロボットを働かせられるようになったからだ。それどころかロボットは仕事の不平は言わないし、ミスをすることもない。人間を雇い続けているのが馬鹿らしくなるくらいだ。普通の経営者だったら、人間よりもロボットを仕事に入れようと思うはずだろう。
 すると大多数の人間はどうなるのか? 働く場所がなくなった。つまり「賃金」を得る場所はなくなった。賃金を得る機会を失った人たちの「生活」はどうなるのか……。
 当然ながら家もない、食べ物もない……という状況になり、そういう人たちを中心に治安が悪化していく。
 もしも現実にこういう状況になったとき、富裕層や、あるいは才能の力で成功者になった人々は、仕事を喪った大多数の人たちに対し、何かするだろうか? 断言してもいいが、「なにもしない」。この件について私は色んなものを賭けてもいいが、富裕層や成功者達は失業者達に対し、何もしない。
 なぜそう言えるのか。それは富裕層や成功者たちは、自分が高い地位を得られたのは、努力し続けた結果だからだ――そう思い込んでいるからだ。そう思い込み、現在の立場に強烈なプライドと、脱落者に対する差別意識を持っているから、「失業した人たちは怠け者だ! そんなやつらを助ける必要はない!」という考え方に陥りやすい。
 これは100年後の未来の話をしているのではなく、現代においても「所得差別」「階級差別」は一つの問題として語られている。現在の高いステータスを得た人々は、すでに人種差別やその以前の社会にあったような差別は(見えるような形では)あまりやらない。しかし「所得差別」に限っては別。成功者ほど、これみよがしな所得差別・階級差別をする。なぜそうするのかというと、それが「正論」であると思っているからだ。正論であるからいくらでも言っていい、なぜならそれは正義であるからだ……成功者ほど、こういう考えに陥りやすい。
 その根拠を示すことができる。現在の社会的成功者が「今の世の中は間違っている!」といって政治の世界を目指した……そんな事例、見たことあるだろうか? ないでしょ。ないってことは、成功者は弱者を救うためになにかすることはない、という証明となっている。ほぼすべての成功者は、自分の地位をより高めるために、富をより大きくすることに全生涯を費やして終わる。自分のエゴで生涯を終えるつもりだだから、自分の足跡を後世に残そうとも考えない。

 もしも未来の社会、ロボット技術が進歩して、労働環境が破壊され、極端な格差社会が問題化しても、運良く社会上位にいけた人たちは、身の回りの様子を見て、「世の中を変えなくては……」なんて考えない。考えつかない。むしろそういう環境の中で「成功者になれた自分」という立場に酔ってしまう。立場に酔ってしまうから、自分が優位に立てるゲームのルールを変えよう……なんてことは思わない。せめて「ベーシックインカムを」とも考えない(「そんなことしたら怠け者が増えるだけだ」……と成功者達は絶対に言うだろう……いや、すでに言っている人が……)。成功者たちは、このまま貧富が極端な時代が続いて、自分が周囲よりも多く富を持っている……という優越感に身を置きたい……と思うはずだ。そしてそういう意識を自分自身が持っているとは夢にも思わない……。そう指摘しても「何が悪い?」と自分を正当化することでしょう。
 繰り返すが、100年後の未来の話ではない。現代、すでにそういう現状はあちこちで見られる。未来予知とかそういう話でもなく、すでに現代がそういう状態になっている。100年後、そういう状況がより酷くなっていく……それだけの話だ。

 人類は数万年かけて、「地上の覇者」となった。それゆえに、人類の大半は自分たちの能力について、見込み違いをしている。人類は他の動物たちと較べて、非常に優れた存在に進化したんだ……と思い込んでいる。しかし事実はそうではない。
 人類は弱い。人類はもともと、「地上最弱」の存在だった。今から7万年前――アフリカを脱出する以前の人類は、他の猛獣が狩り取って、さらに他の動物たちが食い荒らした後の残り滓を貪ってどうにか生きていた。そういう何に優れているのかよくわからないような、奇妙な二足歩行の動物――それが私たちの本当の姿だ。
 ただ他の動物より少々頭が良かっただけ。そのほんの少々の差が、今のような巨大文明を築き、その文明のなかでぬくぬくと暮らせる現代を作り上げた。私たちは文明という下駄を履かされているだけで、7万年前のアフリカにいたときよりも進化したのか――いや、何も変わっていない。事実として、当時の遺骨と比較しても変わってない。文明という下駄を履かされて、勘違いしている間抜けが私たちの現在だ。実際の私たちは、今もって地上最弱の存在。他の動物たちより頭がいい……と思い込んでいるが、本当に「少々良い」くらいなもの。本当言うと人類は、さほど頭がいいものでもない。
 人類は他の動物たちとは違う! 神に選ばれた存在なのだ! ――というわけではない。たまたま運が良かっただけ。すべては偶然の連なりでしかない。

 実は人類は地上最弱である……このように考える人は少ない。しかし潜在的に「そうではないか」という不安を抱えているから、超人に対する憧れを持っている。今はスーパーヒーロー映画全盛の時代だが、なぜあんな変なものが流行るのか……それは自身の肉体の弱さへの不安と、それを忘れさせてくれる超人への憧れを同時に持っているからだ。

 しかしその反対に、現実世界に超人が現れることも恐れている。

 こちらはドラマ版『ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪』のとある場面。人間の王国ヌーメノールにたった1人のエルフが入ってきた……それを許さない人たちが演説をやっている場面だ。
 なぜならエルフは、人間よりもはるかに頭がよく、高い道徳心を持ち、芸術感性にも優れ、なにより長時間働いても疲れることはない。そんなやつらが来たら、俺たちの仕事がなくなるじゃないか……! 人間達の労働を守れ! エルフを排除せよ! ……と訴えている場面。
 なぜこのように振る舞うのか? それは自分たちの能力が実はたいしたことがない……とうすうす気付いているから。もしも本当に人類が、自分たちが普段言い合っているように「他の動物たちよりも進化した、素晴らしい存在だ」と本気で思っているなら、こんな振る舞いはしない。
(落ちぶれていく人に「怠けているからだ!」とか言って罵る成功者達も、本当にエルフのような存在が現れたら「不公平だ! 追い出せ!」と言うでしょう。普段、弱者に対し正論ぶちかましている人々も、本物の強者が現れて自分の立場が危うくなると、ルールのほうを変更しようとする)
 人類が本当に神に選ばれた素晴らしい種族であれば、エルフだろうが、なんだろうが受け入れて、共存もやっていくことだろう。しかし現実はそうではない。そうではない……と本当は気付いているからこそ、このように振る舞う。

 ロボット社会に直面した『PLUTO』ではどう描かれているのか? こんなふうに「宗教化」してしまっている。社会からあぶれてしまった人たちが、変なフード付きマントを羽織って、宗教的な集会を始めている。フードを被っているのは、誰なのか特定されないようにするためと、一体感を得るために自ら人格を放棄する……という意味がある。
 未来の世界では労働環境が崩壊し、1人1人が「社会観」を喪って孤立してしまった。ここにいる全員が「無敵の人」状態。だからこそ一体感を得るために、わざと個人を放棄するような振る舞いをしている。

「ロボットは召使いである! ロボットは下等である!」

 なんて言っているけど、そう言わねばならないのは、本音が逆だから。すでに人類がロボットの召使いになっている。ロボットの能力が自分たちよりも明らかに上になっている。そんなものが労働市場を荒らすような状況になると、ごく普通の人間はコンプレックスに押しつぶされることになる。頭の片隅に抱えていた「人類は実はたいした生き物でもないんじゃないか」という絶望感に打ちのめされてしまう。なんで俺たち生きているんだ、いやなぜ生まれてきたんだ……と。その絶望を跳ね返すために、「俺たちは人類は、ロボットより優れた存在なんだ!!」と大声で合唱しなければならない。
 ここでこんな集会をしている人々を、「能力の低い人々」なんて見下してもいけない。なぜなら大多数の人類は、たいして能力も高くなければ、頭も良くないわけだから……。ここから抜け出すのに必要なのは、たった一つだけ、「運」である。

 こういう話は数千年後の未来の話ではなく、あと数十年後くらいの未来の話。早ければ、あと一世代先の話。繰り返すが、こういう時代が来ても、富裕層や成功者は、大多数の人たちを救おうとは絶対にしない。社会そのものを変えようとはしない。それどころか、より推し進めようとする。自分の企業で1人多く雇えば、「無敵の人」が1人減る……なんて考える経営者は、これからの時代も現れることはない。
 こういう宗教化した“怒り”が、「民族意識」に結びつく……ということは容易に想定しうる。

 間もなく、反ロボット団体の中核的な存在として「アドルフ」というおじさんが出てくるが……。
 この顔を見て「ひぇ…」ってなるよね。ヒトラーじゃないか。
 もちろんこのおじさんはヒトラーではなく、アドルフ・ハースというまったくの別人。でもモチーフにしているのは明らかにアドルフ・ヒトラー。

 アドルフ・ヒトラーが政治に目覚め始めた1918年以降のドイツの様子を見てみよう。
 1918年。ドイツは第1次世界大戦で敗北し、戦勝国から馬鹿げた額の賠償金を請求される。ヴェルサイユ条約で国土を奪われ、さらに革命が起きてドイツ帝国解体。その後間もなく経済破綻を起こし、ハイパーインフレ。パンを一つ買うのに、箱一つ分の札束が必要……という状態になった。
 仕事もない、食べ物もない状態に陥り、街のあちこち餓死者がゴロゴロ。ドイツ王家が解体されてしまったので、国家としてのアイデンティティは消滅し、「ドイツ人」としての誇りも徹底的に踏み潰されていた。
 そうした最中に、アドルフ・ヒトラーが出てきて「ドイツ人としての誇りを取り戻そう!」と呼びかけたわけである。今では信じられないような話だが、アドルフ・ヒトラーも普通に街頭演説から始めて、普通に選挙に選ばれて政治家になった。1923年のミュンヘン一揆のときはだいぶ過激にやっていたが、出所してからは地道に政治活動をして、正当な手続きを踏んで政治家になり、普通に支持を集めて議席を獲得していった。
 では当時の人々がなぜアドルフ・ヒトラーを熱烈に支持したのか。それはドイツという国家が完全に破綻していたからだ。経済的にも文化的にもボロボロ。そんな時に「ドイツ人としての誇りを取り戻そう」と呼びかけたのがヒトラー。ヒトラーを支持したのは、他でもない保守層である。多くのドイツ人はヒトラーを信じ、盲進していくようになる。
 しかし「ドイツ人としての誇りを取り戻す」という思想が、間もなくおぞましい人種差別へと変わっていく。ドイツ人は素晴らしい人種なのだ、地上でもっとも力が強く、賢い人種なのだ。そんな優秀なアーリア人が世界に広がり、劣った人種は滅ぼされるべきなのだ――。
 「ドイツ人の誇り」を取り戻したい願望が、次第に国全体がおぞましい妄執へと傾いていく……。

(最近は「日本の文化や技術は実はこんなに凄かったんだ!」っていうのがあちこちでやっているけど、なんであんなのが流行っているかというと、「日本が落ちぶれた」から。落ちぶれているからこそ、「本当は俺たち凄いんだ!」って言うようになる。そう言い合わないと、現実に押しつぶされるからだ。第1次世界大戦後のドイツの話を、他人事にしてはならない。日本も似たような状況になりつつある)

 歴史の話からアニメ『PLUTO』の話に戻る。これからやってくる未来、ロボットが人間の仕事を奪い、社会性も奪い、尊厳も奪う。仕事もない、食べ物もない、社会との接点を断たれて孤独に陥る……。富裕層や成功者は、そういう脱落者を指して「自己責任だ!」と非難し、コスパを求めてどんどん労働のロボット化を推し進めていく(富裕層や成功者は「ひょっとして自分たちが悪いのでは?」なんて考えつかない)。
 その反動が、「反ロボット」に傾いて、その流れが極端な思想に傾くのは、容易に想像ができる。保守層ほど、そういう極端な思想に陥りやすい。歴史は形を変えながら繰り返す。が、もしもそういう時が来ても、ほとんどの人々は「あっ、あのアニメで描かれてたやつが現実になっている」なんて思わない。人間は現実を前にしたとき、「あ、今マズい状況だぞ」と気付いて踏みとどまったりしない。むしろ踏み抜く。時代に押し流されて踏み出してしまうのが、人類の弱さだ。これまた人類の性質だが、極端すぎる状況に置かれると、その真逆の極端すぎる状況へ振り切ってしまう。ロボットが人間の労働を奪い、尊厳も奪ったとき、やっぱり真逆に振り切れるだろう。

 PS4の名作ゲーム『デトロイト ビカム・ヒューマン』でも似たようなロボット社会を描いていたよね。誰もが予想している未来に、私たちは突き進もうとしている。『デトロイト』や『PLUTO』みたいだ、と思っても、現実にブレーキペダルはない。

 ロボットが自分たちの立場と尊厳を奪っている……そういう事態になったとき、人間はロボットに対し露骨な差別意識を向けるようになる。

「そういうことをあまり大声で言わないほうがいい。差別になるよ。世界ロボット人権法の下ではね」

 すると世の中の“進歩的な人々”は、「ロボットに立場を奪われた人々」ではなく、ロボットのほうを救うべきだ……と考える。
 ロボットへの差別はいけない! ロボットにも人権があるんだ!
 ……もちろんロボット自身はそんなこと言わない。でも優秀で進歩的と自覚する人々は、ロボットの心情を「代弁」し始める。
(「ポリコレ」なんかがそうだね。ポリコレを重視すると、世の中の「自分は進歩的だ」と信じているエリートさんたちは「素晴らしい!」と絶賛する。その一方で、どんどん保守的な人間の怒りを買う。そこで分断が起きていく)
 ロボットには同情するけど、ロボットに仕事や尊厳を奪われた人を、かわいそうだとは思えない。何度も言うが、「それは自己責任だ」と進歩的な人ほど考えるからだ。「だったらロボットに奪われないような仕事をすれば良いでしょ」「ロボットに負けないくらい知識や技術を極めればいいでしょ」……絶対にそう言う。それに、人間は見た目の良し悪しで救うべき対象かどうかを決める。貧困に陥って、見た目がみすぼらしくなった人々を、進んで救おう……なんて考える人はなかなか現れない。
 救うべき人が見捨てられ、救う必要のないもののほうが大事される。そういう奇妙な転倒が、余計「反ロボット」への反動を強めていく。

 どうせ漫画の中の話でしょ……と、ほとんどの人々は思い込んでいるかもしれないが、わりと現実は冗談では済ませられない状況まで来ている。
 最近のキーワードは“移民”。日本でも移民はそれなりに受け入れているが、もともとは経団連が「賃金を上げたくないから、海外から安い人材を入れろ」と政治に働きかけて……という経緯だった。(経団連の提唱することは、だいたい碌でもない
 経営者たちも、賃金を上げたくないし、労働現場に蔓延しているブラックな問題を解消したくない……だから日本人よりも移民を優先して雇うようになっていく。結果的に、移民に仕事が奪われていくようになる。そんなデタラメを続けたら、どうなるか?
 ヨーロッパではそろそろ結果が見え始めている。極端な言論がネット上を蔓延し、極端な移民排斥を訴える政治家が現れ始めている。さらに人種差別的・民族対立的な思想にも流れようとしている。それに対し、進歩的な人たちは未だに「移民への差別は許されない!」「移民はかわいそうな人たちだから救うべきだ!」と言い続けて、これに同調しないものは「極右だ!」「レイシストだ!」とレッテル貼りをしている。いや、問題はそこじゃないだろ……とツッコミたくなる。だんだん大戦前の空気に近付いていっている。そこまで問題を大きくさせている主犯は、資産を持ち、聡明で、自分たちは「進歩的な人々」と信じる人たちだ。
 要するにその程度にしか議論は深まらない。ほとんどの人間は、移民の問題を感情的な善悪論でしか判断できない。「人類は地球上でもっとも賢い種族だ」……といっても、現実はこの程度でしかないのだ。
 今は移民だが、これを乗り越えた次は議論の対象がロボットとAIになる。いや、乗り越えられず、移民問題とロボット問題、同時に語らねばならない……そういう状態になる。
 かつてはこういう時の対立軸が「国家」で、国家どうして戦うということに収束していったが、新しい対立は貧富の差、意識の差の間で起きていく。国家同士が分裂して争い合う(このままいくと、国家の形自体が崩壊するのかな?)。
 正論を振りかざして「自己責任だ!」とまくし立てる富裕層は、やがて後悔する。間もなく自分の家に火焔瓶を投げ込まれる日が来るからだ。それも自己責任(どうして自分だけは大丈夫って思える?)。こういう警告をしている人はわりと多いが、“進歩的な人々”は警告を無視し、そうした分断をむしろ推し進めていく。

 それからどうなるか……ここからは私の予想だが、たぶん乗り越えられず、ヨーロッパはそのままクラッシュするんじゃないか。ヨーロッパ文明崩壊。1500年頃からヨーロッパ中心の時代が続いてきたけど、このあたりで終わるかな……。従来的な民族間対立が解消されてない上に、「人間VS非生物」の対立が来る。これを乗り切れるとはとても思えない。『PLUTO』の世界ではドバイのような超超高層ビルが建てられているけど、現実はその前にヨーロッパ文明自体がクラッシュするんじゃないかな。
 日本では高学歴エリートほど、「名誉白人」になりたがる人が多いけど、そろそろ機を見て、身の振り方を考えたほうがいいでしょう。「日本・生き残り戦略」をそろそろ真面目に考えたほうがいいじゃない? 頭の良い人にそう提唱したいけれど……。

 ここからちょっと違う話をしよう。高度に進化したロボットは、果たして人間よりも劣った存在なのだろうか……という疑問だ。

 第1話の後半、お話しがゲジヒトやアトムから離れて、少し長めの「挿話」が入ってくる。とある老音楽家とロボットの話だ。
 老音楽家はロボットへの差別意識むき出して、

「お前達の出している音は音楽ではない! データさえ入力すれば無限のメロディーラインを創造するだと! こんなものは……音楽でもなんでもない!」

 と語る。
 ロボットがいかに進歩しても、情緒が理解できるわけではない。美しいもの、愛らしいもの……そういうものを理解できるわけではない。これに対し、老音楽家のもとに派遣されたロボット・ノース2号は懸命に音楽を理解しようと努める。
 これがエピソードの最後に感動的なドラマへと昇華されていくわけだが……。

 しかしちょっと疑問もある。ロボットは人間の情緒を理解できないものだろうか。情緒というものは、そこまで高次元なものなのだろうか? それは人間の側の錯覚ではないのか……?

 『PLUTO』が思考実験として描いたのは、ロボットが人間に変わろうとする、その端境期だ。人間よりも高い知能、強い腕力を持っているが、人間としての情緒を持ち得ない……。そのロボットがいかにして「人間的な情緒」を獲得しうるか――それが物語全体のテーマになっている。このテーマが翻って「人間とは何か」という問いに対するアンサーになっていく。

『PLUTO』で描かれるロボットたちは、意識的に人間のような暮らし方をしている。中には人間の子供を引き取って育てている人もいる。人間の習慣をなぞることで、人間の感性を理解しやすくなるからだ……という。

 でも私がこの『PLUTO』という作品全体に対して思うのは、ロボットという優れた存在が、「人間的な存在」に“落ちぶれて”いく過程なのではないか……と。捉え方次第、というやつだが。
(これは私が、「人類は別にたいした種族でもない」……と考えているから。『PLUTO』の作者・浦沢直樹は「人類は素晴らしい種族だ」と考えている。この辺りで、ちょっと意識の相違がある)
 これがロボットのアップデートだ、として描かれるのは、どこか「人間の情緒は素晴らしいものだ!」という信仰があるからじゃないか……。
 物語の後半、碇ゲンドウ……じゃなかった、天馬博士が出てくるのだが(天馬博士が碇ゲンドウにソックリなんだ)、天馬博士はアトムに対し、無数の感情を教え込む……という手間のかかることをする。その結果、アトムは「憎しみ」の感情を獲得する。その感情を獲得したことで、ロボットとしてステージが一歩繰り上がる……という結末になっていくのだが。これはロボットとして本当にアップデートなのだろうか……。

 この『PLUTO』以後の物語をちょっと想像すると、『機動戦士ガンダム』の最後でたくさんの人々が同時多発的にニュータイプ、つまり超能力に目覚めていったように、『PLUTO』の世界でもロボットが次々に「人間的な情緒に目覚める」というフェーズが来るんじゃないか、と。『PLUTO』の世界ではそれは世界最高水準の7体のロボットしか獲得し得ない……そういうものとして描かれるけど、どこかの時点で一気にロボット全体に広がるんじゃないかと。なにしろロボットは、システムの更新でアップデートが可能なわけだから。

 その後は……どうなるんだろう? その先の未来は、誰も想像していない、物語にも描かれていない世界へと入っていくんじゃないだろうか。『ターミネーター』の描いた未来のように、ロボットと人間が戦争を始めるかも知れない。ただし、それはロボットが人類を排除しようとして……ではなく人間が自分たちの立場を守るためにロボットに戦争を仕掛ける、という構図になる。アップデートされたロボットは、情緒で考えるようになるから、情緒に振り回され、人間の挑戦を受けて立とうとする。過激なロボット排斥の末に、ロボットが自衛のために人類と戦う。この戦いで人間が勝利しても、もとの社会観に戻れるわけではない。着地点不明の戦争に突入していく。
 人類というどこまでも愚かな種族が、最後まで愚かな理由で戦争をしかけて、最終的にロボットに滅ぼされる……。漫画みたいな話だけど、あり得ない未来というわけでもない。人類のその後はどうなるのやら……?


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