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4月10日 難しいゲームはやりたいとは思わない

 難しいゲームは進んでやりたいとは思わないなぁ。『デモンズソウル』とか『SEKIRO』とか……。

 高難易度ゲームって昔から定期的に流行るんだ。『超魔界村』とか『怒首領蜂』とか……。異常な高難易度で、もはやクリアできることすら前提としないゲーム。
 『怒首領蜂』シリーズの後半は確か制作スタッフすらクリアできなかったとか……。その頃にはもう私は手も出さなかった。だって1面クリアすらできないのはわかっているし、そんなものにお金と時間を割くのはねぇ……。

 ああいった高難易度ゲームって、若いうちは無謀に手を出したくなるものなんだ。同時代の流行に乗りたい、という意識もあるしね。異常な難易度を突破して、1面クリアしたぞ、2面のボスまで行ったぞ……そういうのが喜びになったりする。
 でもよくよく考えるとどんなにやりこんでも究極的な達成感の得られないゲーム。絶対にクリアできないし、エンディングを見ることも叶わないゲーム。そんなものにお金を出すのはどうかと考えるようになり、年を取ってくると冷静な気持ちが次第に遠ざけるようになる。

 『SEKIRO』みたいなゲームがいまヒットしているのを見て、ああ若いユーザーがまだまだいるんだな……と遠くから見るような気になる。
 私はそっちのほうへ行こうとは思わない。

 ところで、「ゲームの難易度問題」は時々ゲームユーザーの間で議論が交わされる。多くの場合、「難易度が高すぎる」時に起きる。
(「難易度が低すぎる」時にも話題に上がるときはある。いつだったか……カプコンが「最近のゲームは流動食のようだ」と表現して、硬派なゲームを作り続けると宣言した、ということがあったと記憶している。ゲーム業界はどっちかの方向へ極端に傾く傾向がある)
 私の考えとしては、ゲームの難易度はそのゲームのコンセプトそのものだから、作り手が「これでいい」と決めたところが正解。そのゲームの世界観があって、キャラクターがあって、その上に難易度が乗っている。それらすべての要素が噛み合っていれば、高難易度であれ低難易度であれ正解である。

 映画や文学だって、全てがわかりやすいエンターテインメントというわけではない。中には見る者を拒むかのような難解な作品は一杯ある。
 そういうのを時に「見てやろうか」という挑戦のような意欲がわくときもある。

(余談ながら、私の人生のベストアクションゲームはPCE『悪魔城ドラキュラX』。なぜかというと難易度。「私のために作られたのか」というくらい私のゲームのウデマエにぴったり合っていた。ここまでのピッタリ感はそうそうない。SFC『悪魔城ドラキュラXX』は同じ世界観とキャラクターだが、まったくの別作品)

 こういった高難易度ゲームに対して「排他的だ」という批判があるようだ。
 確かにせっかく6000~8000円のお金を出して、エンディングを見ることすらできない、という不満もわかる。
 ラストダンジョンで異常なほど難易度が跳ね上がり「やってられるか!」ってなるRPGに出くわすと、怒りしかわかない。クリアを遠ざけるかのような作業的なプロセスの連続、1度ミスしただけで最初から……みたいなゲームにも怒りがわく。この種のゲームには「よーし挑戦してやるぞ!」みたいには思わない。
 『SEKIRO』はそういうゲームじゃないとは思うけど。私が例として挙げたゲームは、ただのクソゲーの話だ。
 高難易度ゲームにも何かしらの救済措置は必要かも知れない。誰もがエベレストを目指す登山家というわけではない(エベレスト登頂を目指して死んだ人一杯いるし)。

 こういう時の、いい折衷案が見付かればいいんだけどね。
 高難易度というコンセプトを守りつつ、ちゃんと大多数のユーザーがクリアできるゲーム。
 アシスト機能か、難易度をうまく調節するメタAI(ゲームマスターAI)の導入……。

 いや違うな。
 確かに「制圧したぞ」という達成感が得られるとき、というのはそれじゃない。
 あくまで作り手が設定した難易度に近付くこと、それを乗り越えられるようになること。これが本題なのだから、それに近付けるように挑戦する意欲を持続させること。あるいは、その道筋を示すこと。こっちの方向で考えなくちゃいけない。
 例えば……正しくクリアできるまで延々ループするとか? ああそれだとゲームオーバー→コンテニューと変わらんか。意欲を持続させる切っ掛けにはならない。
 答えの出ない問いだな、これも。

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とらつぐみ
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