ゲームの感想 ファイナルファンタジー12
この記事はノートから書き起こされたものです。詳しい事情は→この8か月間に起きたこと。
『ファイナルファンタジー12』が発売された当時、私はすでにかなりの貧乏状態にあり、作品は気になっていたけれども買うことができなかった。確か当時、セブンイレブンでバイトしていたんだったかな……。オープニングシーンを収録したDVDがおまけになっていたプレステの雑誌を買った記憶はあるよ。
あれから20年……。ああ、私はいまだに貧乏だわ。何も変わってない。でもソフトは手ごろな値段になって買うことができるようになった。20年前に遊べなかったゲームを、ようやく遊べるようになった。
20年前。PS2時代最後の『FF』であるが、クオリティは非常に高い。年代を感じさせるものはあるが……フォントがダサかったり、カメラの動きがおかしかったし、テクスチャが荒いし、カメラが動くとポリゴンが揺れる部分があったり……。高解像度化されているけども、技術的に古いと感じさせるところは残ってしまっている。いや、むしろ高解像度されているからこそ、技術的な古さが目に付く。
まあこの辺りは20年前の作品だから目をつむるが、その部分を差し引いても、凄みを感じるのが世界観の作り込み。きちんと文化を反映された都市のデザインや構図。このあたりの作り込みやデザイナーのセンスの高さは、20年、30年たっても色褪せてない。現代ゲームでもこの域まで来ている作品は少数だし、やっぱり和ゲーの中でも『FF』が特別な存在であると、改めて思い知らされる。
巨大なキャラクターには、とりあえずブラーを掛ける。当時はこういう表現が多かったなぁ……。
私のお気に入りはヴィエラの古里であるエルトの里。
なんですか、あのけしからん風景は! 天国ですか! これは長期滞在して、じっくり調査する必要がありますなぁ!
調査のために一杯画像を保存しましたよ! ええ、ぜんぶ調査のためです! 調査のためですよ! ああ~なんて意欲かきたてられる風景なんでしょうか!
まあちょっと落ち着いて。読んでいるあなたも脱ぎ掛けたものを履いてください。
エルトの住人たちのベースにあるのは、エルフみたいだね。自然と一体となった暮らしや風景、それに不老長寿の設定とか、エルフを思わせるところが多い(名前も「エルフ」と「エルト」だし)。
エルフをベースにしつつも、長身でウサ耳を付けちゃうセンス! 一見すると、クールで神聖な雰囲気を出しているのだけど、ウサ耳の存在が単に「エルフ的な神秘性」とはちょっと違う、だからといって「ケモノキャラ」とも違う、独自のポイントに足を接地させている。このバランス感覚がいい。
それに、様式。全体のカラーは、作品のキーである深めのセピア。「鉄」と思われるものが一杯見られるが、フレームの作りがアールヌーボっぽい。優雅な曲線。こういう曲線、大好きなんだ。この曲線の存在が、アラン・リーやジョン・ハウが描いたエルフ様式を連想させてくれる。
『指輪物語』のエルフは、大樹にロフトを作っているが、すべてにおいて天然素材。でもエルトの里では鉄を使って、ロフトを支えている。さすがにロフトの重量が大きいから、天然のつる植物では支えきれないと想定したのだろう。
鉄を使っているが、あくまでもエルフ様式で。単に「実用のもの」ではなく、いや実用のものだから、目に付くものだからこそ美意識を反映させる。ここにエルトらしさが出ているところ。天然素材で作られたものに施された装飾や塗料の美意識ときちんと調和させている。
衣装は「皮」だろうか「鉄」だろうか。下着を着けず、肌に直接だから、さすがに「皮」だとは思うが……。この衣装も、実用性はほぼなし。肌に直接具足をつけているようで、武骨な感じもあるけれども、形全体が優雅なので、武骨感はない。むしろ最低限の衣装だけで作られ、肉体の美しさを妨げず、身体全体でアートを表現しているようにも感じられる。いっそ、キャラクターの体に美しいペイントが丁寧に施されているみたい。
ある種の理想の人間像……というところでエルフと通じ合うところがある。それでいて、嫌みにならないゆるやかさで性的。性的だけど下品ではなく、あくまでも風景が生み出している美しさと調和させている。身体そのものを、美しいものとして描いている。
と、いうわけで私はエルトの里がお気に入り。この里のデザイン様式や、その住人の姿などがこの風景全体の美を表現していて、見事な風景を作り出している。
ああ、こういうところで長期滞在したい。
ヴィエラのポイントはなんといっても尻。いや、ヴィエラに限らず、背面のデザインにこだわりを感じる。どういうわけかこの作品、背面を露出しているキャラクターが多いように感じる。その背面が、なんともエロティック。ミニスカ王女ことアーシェも背中だしまくりだし。幼馴染ポジションのパンネロはあまり肌は出してないけど、皮の装飾で背中に羽が生えているように見せかけていて、これがオシャレ(もしかしたら“羽根”ではなく肩甲骨をデザイン化したものかも知れない)。主人公ヴァンも背中出しまくりだが……ヤローの背中はどうでもいい。
この尻へのこだわりが、後に『ニーアオートマタ』の2Bを生み出すところに繋がったのだろうか……。
尻から離れよう。
このゲーム、対話シーンが良い。
こういったファンタジーの難しさは、対話シーン。下手なライターが書くと、どうしても「設定説明」になったり、その設定もうまく制御できず、「なんとなく雰囲気会話」になりがちだ。
だが『FF12』ではキャラクターがそれぞれの背景を踏まえ、キャラクターごとの主張をしっかり持ち、対話の中に“対立”を描いている。世界観がきっちり作り込まれている証拠だ。イベントムービーは基本、眺めているだけのパートだが、退屈にならなかった。
勢力図の作り方も非常に複雑で、ダマスカス勢も一枚岩じゃないし、敵国である帝国の内部も様々な勢力がある姿が描かれている。
残念なのが元老院たち。彼らの存在感のなさ。暗殺の瞬間も描いてほしかった。ストーリーを読んでいると、いつの間にか退場……という感じで、「あれ?」という感じがあった。
ジャッジたちは存在感はあるのだが、誰が誰なのかわかりやすい。何か見分けるための目印になるものを付けてほしかった。
一つ一つのシーンは印象的で、がっちりしたドラマの雰囲気が出ているが、大いに引っかかる部分もあった。
『ファイナルファンタジー12』はどう見ても『スターウォーズ』から強い影響を受けている。飛空艇が無数飛び交うシーンは、『スターウォーズ1・2・3』の雰囲気だし、ジャッジの登場シーン、映像の印象、音楽の雰囲気は露骨にダースベイダー。
空賊で賞金稼ぎのバルフレアはハン・ソロだし、バッシュ将軍はオビワン、気性の荒い姫様アーシェはレイア姫だ。
『スターウォーズ』から惑星間移動を外し、風景を荒野に変えたら『ファイナルファンタジー12』の風景ができあがる……そんな感じだ。
ここまで『スターウォーズ』のストーリー、キャラクターをなぞっていながら、主人公のヴァンはルーク・スカイウォーカーではない。フォースのような特別な力を発揮することもないし、アーシェ姫と恋の雰囲気も生まれないし、もちろん兄妹でもない。ジャッジと親子だったりもしない。ただの若者だ。『指輪物語』におけるメリー&ピピンくらいの存在感しかない。
バルフレアは重要な登場人物であるシドと親子関係だし、姫様はダマスカスの存亡をかけて行動をしているし……こう俯瞰して見るとヴァンの存在意義が薄い。「国同士の戦いに紛れ込んじゃった一般人」状態だ。
ヴァンと物語世界との関係性は初期において、兄がバッシュ将軍に殺されたというエピソードがあったが、このわだかまりが晴れた後は物語にコミットする必然のないキャラクターになってしまった。「なぜヴァンがダマスカスのために戦うのか」この命題が立てられていない。
これが物語の後半ほど問題化して、キャラクターたちの対話にまったく加わらない。対話の最後に「よし、行こうぜ」と言うだけのキャラクターになってしまっている。
物語のクライマックスはダマスカスと帝国の全面戦争に突入していくが、クライマックスに向かっていく高揚感が薄い。なぜなら、主人公であるはずのヴァンは物語中、まったく成長しなかったし、いかなる宿命を背負わず、宿命を乗り越えるドラマも描かれていない。最後の最後まで「なんとなくついてきた人」でしかないのだ。
そもそも、ゲームが始まって20分が過ぎて、ようやく出てきた主人公だし。
アーシュ姫が見ている幻覚を、ヴァンにも見える瞬間があるが、なぜなのか解説されないまま。ここで「ヴァンも実は王家の血筋で……」という話が出てくるかと思ったら、それすらない。いや、そういう展開があれば、ヴァンも主人公になれたかもしれなかった(「ありがち」と言われるが、でもそうであったほうがいい)。
『ファイナルファンタジー12』の主人公が誰かと言えば、間違いなくアーシュ姫様。アーシュには国という大きなものを背負っているし、その存亡のために戦うというお題目があるし、かつて結婚していた男性の仇というお題目もあった。背負っているものが一番大きく、最終局面で意義ある活躍を見せるのがアーシュ。これはもう絶対に主人公だ。
こんなに主人公としての要素、存在感をもっているのに、なぜアーシュを主人公にしなかったのか……。
システム面について。
20年前に考案されたシステムについていまさら言うのはどうかと思うが……。ガンビットシステムはただただ面倒くさいシステムだった。システム回りがごちゃごちゃしすぎて初見でわかりづらいというのはFFシリーズの宿命であるのだが、『ファイナルファンタジー12』はその中でも一段ひどい。
まずすべてのステータス以上に対応できない。「石化中」「石化」の二つが別カテゴリーになっており、どちらかを優先しなければならない。ステータス異常のパターンは非常に多いのだから、レベルが上がってきたら、それらを全部ひとまとめに対応できるガンビットを追加してほしかった。
おそらくはエリアや向き合う敵に合わせて組みなおしてね、というのが作り手の意図だったと思うが、それは単に面倒くさいだけだ。
フォローできない状態異常については、手動でアイテムや魔法を使うのだが、状態異常の種類が多すぎて、それに対応したアイテムも多すぎて、縦一列に並んだアイテムの中から目的のものを探すのが面倒くさかった。
こういったシステムはもっとざっくりしたものでもよかったのではないか。例えば「状態異常→魔法で治す」くらいの。細かくすればするほど「ああああ、もう!」ってなる。設定を細かく作ればディテールが充実するわけじゃない。この違いをわきまえてほしかった。
ガンビットの種類も店で買うわけだが、これも種類が多すぎて、買っていないものを探してあちこち飛び回って……これも面倒くさかった。
もう一つ面倒くさいといえば、レベル上げ。戦闘に参加していない「控え」にキャラクターには、経験値が行き届かない仕様になっている。このため、キャラクターをチェンジしながらレベル上げをしなければならない。RPGにはよくあることだけど。このレベル上げの面倒くさい問題、いつになったら解消されるのだろう?
『ファイナルファンタジー12』のいいところは、世界観の作り込みや、デザイナーたちのパワー。これにはひたすら圧倒された。「なにかの参考になるかもしれない」と思って、ゲームを進めながら大量にキャプションを取った。どの町も、どの建築も素晴らしく作り込まれている。この作り込みやセンスは、ゲームの技術が古びても、本質的なところで古びることはない。アートワークだけで1冊分厚いものを販売してほしいくらいだ。
ストーリー、ドラマはあと一歩詰めが弱かった。決して駄目なわけではない。世界観の作り込み、キャラクターの作り込みがすごい。ちゃんとしたファンタジーを力強くしっかり描いている。それを感じさせる場面はあちこちにあった。
何がまずかったといえば、最終局面で、主人公にドラマを持たせなかったこと。主人公にドラマがないから、クライマックスに燃えないんだ。どうも他人のドラマを、横から見ている感じ。周りが燃え上がっているのに、なにか置いてかれてるな……という感じ。それは主人公がドラマを持っておらず、見ている人を引っ張ってくれないから。プレイヤーは主人公に感情を置いているわけだから、その主人公にドラマを持っていないと、プレイヤーも“その気”にならない。これが「いろいろ描かれているのに、決定的に平凡」という後味を残す原因になっている。
FFシリーズというブランドを背負った大作なのは間違いない。映像やシステムに保守的にならず、意欲的に挑戦している。いいところは一杯ある。しかしどこか惜しい。突き抜けていくものがなかった。もったいない作品だった。