映画感想&解説 東京無国籍少女
!ネタバレあり!作品のラストまで言及しています!
今回の映画感想文はちょっと特例。「感想文」ではなく「解説」寄りの話をします。全体の8割がた「解説」です。
というのも、Amazon Prime Videoで視聴したのだけど、レビューをざっと見ると「よくわからない」「意味がわからない」という意見がずーーっとあって、「わかる」という人はいるけれども誰も解説を書いていない。
こりゃイカン。私もにわかと言われたらにわかだけど、わかっている範囲で映画の説明を書かないとまずいぞ……という経緯で今回は「解説」を書きます。故にネタバレしまくっているので、ご容赦を。
まず、ファーストカット。
ピントのぼやけた画像からじわーと画面が浮かび上がってくる。映像作品でこういった始まりかたをする時というのは、例えば昏睡状態に陥っていた主人公が目を覚ます時である。
こういう始まり方をしている……ということは要するにここから主人公の覚醒が始まっていますよ、ということを示唆している。主人公の女の子は「世界5分前仮説」みたいな状態で、「絵描きをやっている学生」という設定を与えられ、それを信じてその世界を過ごしている。
その最初の画面を見てみよう。
異様に真っ白な空間で、窓の外が見えない。映画の世界でこういった真っ白空間が出てくるという場合は、現実の世界ではなく、それ自体が異世界的な別時空であることを示唆している。神様なんかがいて、意味深なことを語り始めるのはたいていこういう真っ白空間。それで、窓の外が真っ白なのは、外部世界と峻別された異空間という示唆である。
次に、奥の棚に並んでいる彫像を注目しよう。彫像はみんな同じポーズを向いて、同じ角度でずらーっと整列している。彫像があのようにずらーっと並んでいる意味は、「同じ場面をえんえんリピート再生している」状態を意味している。フィルムが同じ瞬間をえんえん繰り返しリピートして連続している……それを表現するために、あんなふうに並んでいる。
彫像はその後もいろんなニュアンスを与えられて登場するので、それは後ほど説明しよう。
と、この最初のカットを3秒見ただけで、ある程度映画を見慣れた人だと「あ、これは現実世界じゃないな」とピンと来る。私も押井守監督作品はずーっと見続けているし、「押井守=夢の世界」は『うる星やつら2』から続くお約束なので、「はいはい、いつもの奴ね」となる。わかる人には、すぐにわかる演出だ。
その中で、教師の芝居がアニメ芝居。俳優の裁量に任せず、「この位置に立ってこの方向を見て台詞」とガチガチに決めて演出している。これはアニメ監督の手癖なのだけど、見ていると「うーん……」となる。
同じことを優秀なアニメーターが演技をつけて、優秀な声優が芝居を付けたらパチッとハマるんだけど、実写でやるとなかなかハマらない。いかにも作り物感が出てしまう。実写俳優はああいった芝居の訓練を受けていないから、アニメみたいに形に嵌めて、なおかつ自然な芝居というのはなかなかできない。できる人が少ない。それが引っ掛かりとして出てきたかなぁ……。
講堂で担任教師と校長が語り合うシーンがあるのだが、校長の語りの速度が不自然に速くなったり遅くなったりする。あれはおそらく、担任教師が歩いている速度に合わせて芝居するように指示されているんじゃないかと思われる。でも、そんな芝居ができるのって、それこそアニメ声優しかいない。指定された時間内で自然な芝居をする……というこれは特別な訓練をしている声優の専売特許。これを実写で頑張ってやろうとしているところが、観ていてつらさを感じるところだった。
美術室ではみんな延々ギリシア神話の登場人物アテナの姿を描いている。
これは仏教徒が修行として仏像を彫り続けている……みたいな感じといえばいいのだろうか。「絵画の練習」ではなく、修行。で、描いているものがアテナ……つまり「軍神」。軍神への祈りを極めるために書き続けている。
途中、ヌードデッサンを描くシーンがあるけれども、主人公藍は横を向いて軍神アテナの姿を書き続ける。藍が真剣に「戦うこと」と向き合う少女であることがここでわかる。
間もなく藍は講堂へ移動する。
講堂はその他の学校のシーンと明らかに違う。入り口ドアから凝った装飾だし、天井には漆喰芸術、窓、照明も意匠が凝っている。
教室は無機質な白と淡泊な直線を組み合わせた建築なのに、なぜあの講堂だけ?
あの場所は主人公藍の内面世界を表現している。「深層世界」という言い方もあるだろう。その深層世界で、「何か」を黙々と作り続けている。主人公のデリケートな内面描写の場面だから、ああいった意匠に凝った舞台作りとなっている。他と違って、そこだけで閉じて完結した印象……ということが大切な部分。
芸術の精神的効果としてよく言われるのは、芸術と向き合うことで、その当人のトラウマを受け入れ、克服することができる……というもの。それは「遊び」の世界でも言えることで、例えば性的被害に遭った少女が蛇の玩具で遊んだりする、という話を聞いたことがある。芸術とは一貫して何かを「作る」行為なので、「遊ぶ」という行為から一歩進んで、積極的にトラウマと向き合おうとする。
トラウマを負った人、というのは反応として2種類あり、そのトラウマの対象を徹底的に避ける……というものと、そのトラウマを再現し、自分の精神内で再定義して受け入れよう、とするものがある。ヒッチコックの映画『めまい』がそういう作品。それでさらなる悲劇が起きちゃう……というのが『めまい』という映画の凄いところ。
ああいった場所で何かを作っている……ということは、あそこが主人公藍にとっての内的世界で何かトラウマを克服しようとしている……ということがわかる。
ここまでの描写で、『東京無国籍少女』の世界観は「夢の世界」で、「主人公藍の内面世界」のお話ということもわかってくる。
それで少女はあの講堂の中で何を作っているのか。若干わかりづらいが戦闘ヘリ。藍が時々幻聴として聞くのも、この戦闘ヘリのローター音。
戦闘ヘリも押井守監督がずーっと好んでいるモチーフ。学生時代に作った自主制作作品から現在までずっとだから、年季が入ったモチーフである。 押井監督作品を詳しく知る者としては「また出たか」ってな感じだけど。
どうして戦闘ヘリを延々作り続けているのかというと、昏睡状態に陥る前に、戦闘ヘリにトラウマを植え付けられるくらい手を焼いたから。だから後半のバトルシーンで、なぜかそこにあったRPGをぶっ放して戦闘ヘリを撃ち落とす……という場面が描かれた。現実世界でトラウマレベルで苦戦した戦闘ヘリのトラウマを克服するために、それを自らの手で作り上げ、撃ち落として覚醒に至った……というのが作品の流れ。
それで現実世界に戻ると、戦闘ヘリが破壊され地面に落ちている。夢世界でのできごとと現実がある程度繋がっている……ということを示唆している。
時々挿入される地震……まあ周囲のものがまったく揺れてないので、揺れているのはカメラのみ。そこは低予算映画なので仕方ない。 この地震は、主人公藍が覚醒しかけていること。夢世界が揺らぎ始めていることを示唆している。でも襲撃を受けたトラウマが、覚醒を押しとどめている。
それで、この内的空間である講堂で藍はリンゴのみを食べている。
リンゴにはいろいろなニュアンスがあると思われるが、キリスト教のエデンや、北欧の伝承で語られるアヴァロンなど、リンゴは「聖域」の食べ物である。この場面におけるリンゴのニュアンスは、エデンの知恵の木の実みたいなニュアンスではなく、藍が聖域の中に閉じこもって、「精神」のみの生活を送っている……ということの示唆。肉体なき世界の住人みたいな生き方をしている、ということだ。
中盤を越えた辺りで、保険医から軍用食を渡される。学校を背景にいきなり出てくる軍用食にちょっと笑えてしまうが、軍用食が出てきてそれをガツガツと食べ始めるのは、精神だけの暮らしを続けている藍が、肉体の存在としての覚醒を始めていることを示唆している。
その食べているシーン、口元を延々映しているが、これもエロスとしての表現。生命的な生々しさを映し出すために、口元をクローズアップし続けている。生命としての再生の場面だから、エロスが表現されている。
始まってから20分ほどのところで、唐突にレイプシーンが挿入される。唐突な挿入(あっ、そういう意味の「挿入」じゃないよ)でなんだ? と思われるが、あそこで主人公藍が何者かにレイプされて、そのレイプされている直前というか最中に意識がロストし、この学園生活を夢想しているのだと気付くことができる。
そのレイプシーンが意味しているものとは?
学校のシーンは基本的には壁も床も天井も真っ白。少女達は白と黒のみの、シンプルな色彩のみをまとっている。これは完全なる「無垢」な世界観を意味している。
途中、石膏像の女性ヌードが登場するが、これも無垢なる存在。肉体を持たない、穢れなき存在という示唆である。藍はその無垢なる世界観へしばしの逃避をし、しかしやがてやってくる戦いを受け入れようと、修行僧のように軍神の姿を描き続けている。
このように描いたのは……もしかしたら「終わりなき日常系アニメの蔓延」に対するカウンターだったのかな? という気がする。これについては後々言及しよう。
で、このレイプシーン。周囲の彫像がまるで行為を見守るように配置している。
これは「神の視点」を表現している(実際、彫像で作られているのは神様や偉人だし)。 これも押井守監督作品でよく使われる手法。押井作品は彫像にかかわらず、色んなものが背景に描かれ、それらがあたかも舞台の登場人物を見下ろしているように描かれる。例えば『GHOST IN THE SHELL』ではナイフを振り回すテロリストの背景に、無数の看板が配置されている。あれは神様(人形遣い)が監視しているぞ、ということを示している。
今回は彫像なので、実にわかりやすい。
ではその彫像を見下ろしているのは「誰」か? 答えは藍自身。藍自身が神様の視点となり、その様子を見ている。これも藍がトラウマを乗り越えようとしている一つの過程で、レイプを受けている自分自身を客観化して見ている場面。自分の意識が抜けていくような感覚は、PTSD状態になるとよく起きる現象なので、それを表現しているのだといえる。PTSDについて言及される理由は、そういうことだろう。
このレイプシーンにはどんな意味があるのか。もしかしたら藍は負傷し昏睡状態に陥る直前、敵軍人に覆い被されレイプされ、そして処女を喪ったかも知れない。いや、もしかしたら単に敵に攻撃され蹂躙されたことの暗喩的なシーンかも知れない。これはどちらでも当てはまるだろうと思う。
この「処女を喪う」ということは、無垢なる世界である学園生活の終焉とリンクするモチーフとなっている。処女を喪い、喪ったことを受け入れ、戦闘少女として覚醒する……がこの作品の一連の流れとなっている。
彫像には色んな使い方があり、頭部が破壊されている彫像は「アイデンティティの喪失」。彫像は人間の姿を模倣しているので、いろんな意図を示しやすい。
担任教師が藍に対して、性的に迫るシーンもある。このシーンでも彫像は後ろから二人を見守っている。性が藍にとっての強烈なトラウマであることがわかってくる。
ところで担任教師に迫られる場面。藍の腕を撫でながら「はーはー」と息づかいをするだけ。アニメだとああいった記号的な画の配置だけでうまくハマるのだけど、実写だと……。アニメの理屈で撮ってしまっているから、違和感ある画作りになってしまっている。
この外部からの視線を意識させる演出は、講堂の場面にもある。講堂のシーン、背景をよく見ると壁にこれみよがしに大量の肖像画が飾られている。肖像画も彫像とニュアンス的には同じ。外部からの目線がそこにある……ということを示唆している。
これは昏睡状態に陥っている藍を、多くの人が見守っている……ということだろう。
始まって35分くらいのところで、『リヴァイアサン』を読んでいる女性が登場してくる。特定のページが大写しに出てくるのだが、あんなふうに出てくる、ということは「そのシーンを読め」と、そここそが重要な場面だぞ、という監督からのメッセージになっている場面である。
でも正直なところ「読めるか!」と。ビデオなら一次停止ができるのだが、劇場のスクリーンで、数秒の間で読め、というのは無理がある。たぶん、家に帰ってから同じ場面を読んで来い……ということだろうが、私もさすがに『リヴァイアサン』は持っていない。
一次停止して薄らぼやけた文字をひろい読みをすると、「市民権威」と「霊的権威」を巡るお話らしい。おそらくは何かしらの「精神生活」の重要性を説いているのかと思われるが……。この辺りは私も読んでいない本だから解説できない。
ところで、作中の廊下シーンに2種類あることに気付いただろうか。通常の学園生活の廊下と、現実世界の廊下の2種類。一見すると似たような画だからわかりづらい。見分けるポイントは天井を這い回るパイプ。パイプが付いている方が現実。パイプがないのが夢の世界。これが交互に出てくる……ということで藍の意識が二つの世界を行き来していることがわかる。
ちょっと閑話休題。
一見シリアスっぽく見える作品だが、ギャグもちらちら描かれている。
例えば、学校敷地内を犬の散歩している少女。なんで学校内で犬の散歩しているんだよ……とこれも愛犬家の押井守だから。どこかで必ず犬が登場してくる。……でもバセットじゃないんだな。
保健室にも犬の彫像がたくさん。
保健室の背景の壁には「NO DURGU」のポスターが貼られている。私はこれを勘違いしていて、中盤辺りまで「NO ORUGU」(ノーオルグ)だと思い込んで見ていた。まあオチとして共産主義がお話に絡んできているから、間違ってもいないか。やたらと目立つ位置のポスターだから、意味があるのかと……。
その保健室を通り過ぎる女学生が二宮金次郎の銅像を持って、楽しげに談笑している。これも「なんで二宮金次郎像持ち歩いているんだよ」と笑うところ。
ただし、どのギャグも迂遠すぎて笑いづらいのが欠点。
保健室の場面では、外を駆け回る女学生が真っ赤な旗を持っているシーンもある。これも伏線。女の子たちが共産圏に落ちている……ということの示唆となっている。
間もなく学校内に謎の女生徒が現れ、ロシア語で警告を残して行く。
似たシーンは『イノセンス』でも描かれていた。草薙素子が「ここキルゾーンっすよ」と警告するシーンだ。
『東京無国籍少女』でもニュアンスは一緒で、ここは現実世界ではない、夢世界だ……ということを警告するために現れてきている。現実世界からの使者であると言える。『今昔物語』で夢世界からの覚醒を促す俗人みたいな役割だ。
この警告少女は次に教室にも現れる。鉛筆でトントンと叩いているが、あれはモールス信号。藍はそれを読み取って、メッセージの意味を理解する。 と、その時、藍の股間から鮮血がぽたりぽたり……。あのレイプされている場面に状況が戻る。レイプされている瞬間から逃避状態に転落していた藍は、いよいよ戦闘少女として覚醒を始める。
処女=純潔性を喪ったことを受け入れ、この無垢なる世界である美少女学園ものの終焉が始まる。
ここからがド派手なバトルシーンに突入していく。
ただし、敵の姿がいまいちよくわからない。なぜみんなお面をしているのか?
これはそのバトルシーンも「空想」でしかないから。バーチャルシミュレーションみたいなもの。だから敵の姿も象徴的なものにしか過ぎなくなっている。お面をするのは個としてのアイデンティティを隠す……というニュアンスがある。
で、そのバトルシーンもどことなくおかしい。あのカバーのやり方だったら、撃たれるはず。でも都合良く敵は撃たない。主人公藍にとって都合のいい無双シーンが展開し続けている。 まあ、これは女優さんのアクションに限界があるからかな……という気がしたが、でもそのシーンすら実は夢世界だとして、戦士・藍が覚醒するためのシミュレーションバトル的なものだと思えば、納得できるかな。夢世界で無双できたという成功体験を獲得したから、覚醒できた……とも取れる。
さて、このバトルシーンのラスト。ある地図に血がバシャッとかかる。
地図をよく見ると北海道。それも北海道上部、カムチャッカ半島と北方領土が示されている。そこに血がバシャッとかかる。
これは要するに、ロシア=共産主義勢力が日本本土に侵略してきた……ということの説明的な画となっている。国旗を見ると正確にはロシアではないが、赤い旗なので、共産圏のどこか。
ここで『東京無国籍少女』というタイトルの意味もわかってくる。日本は共産主義に乗っ取られて、国籍不明の世界になっているからだ。
日本が共産主義に乗っ取られている??
と聞いて不思議に思う人はいるかも知れないが、これはSFではよくある設定。SFなんてものは基本的には「たとえ話」ですので。
今から70年ほど前、GHQが日本を占領し、日本人をいかに無力にするか、無気力にさせられるか……という計画を練り始めた。ウォーギルドインフォメーションプログラム(WGIP)……聞いたことあるよね。
日米戦は最終的にはアメリカが勝ったが、アメリカは徹底的に追い詰められていた。なにしろアメリカの方が兵力でも上、テクノロジーでも上のはずなのに、始まってみると戦死者はアメリカの方が圧倒的に多かった(戦地によっては、アメリカ側のほうが死傷者数2倍……ということもあった。数でゴリ押して勝ったことにしていたけれども。軍師目線から見ると「負け」だった)。勝ったけれども、日本はトラウマ級に強すぎた。あの日本が再びアメリカに対して牙を剥いたら恐い。次は負けるかも知れない……という恐れがあった。
それでGHQが行ったのは共産主義を日本に流行らせるという方法。日教組はそのために作られた組織だし、マスコミがやたらと中国や韓国に甘いのもこれが理由。「教育」と「マスコミ」の力で国民を洗脳しようとしていたんだよね。団塊世代はこれに最もどっぷりハマった世代だから、未だに左寄りな思想から抜け出せない。今は若い世代の方がかつての洗脳教育の実態を理解しているから、団塊世代は裸の王様状態。そういのが未だにメディアの一番上にいて、強い発言力を持っている……というのが問題なんだけど。……この話は別の機会に。
ところが1948年、休戦状態だったソ連が北方から侵略を開始し、GHQはWGIPを途中でほっぽり出して日本から去ってしまった……というのが戦後実際に起きていた話。
それで、もしも共産主義によってベルリンのように日本も分断されていたら……というもしも話はSF作家が好んで描くネタになっていった。
で『東京無国籍少女』はこの共産主義側になって、国籍を喪った女の子達のお話だった……というのがオチ。しかも左翼の戦士。
藍のクラスメイトに沙羅という女の子がいたが、赤いスカーフを首に巻いていた。これは……名前は忘れたが有名な左翼活動家が元ネタ。押井守はこのイメージがずっと好きで、『立喰師列伝』のケツネコロッケのお銀というキャラクターでも同じ格好をさせていた。
あんな格好をした女の子が出てくる意味……というのも日本が左翼に侵略された後の世界だから……ということ。あれも結末に向けたヒントになっていたんだよね。
もう一つ、こういった世界観が描かれた理由として、押井守は学生時代、高校の門にバリケードを築き、大学でやっている学生運動を自分の所でやろうとしていたことがあった。それは大人達に阻止され、未遂で終わった。
その後大学に進学したのだけど、その時にはもう学生運動は終わっていた。学生運動に参加したかったけれども参加できなかった……という心残りを抱えたまま大人になってしまった。それが押井作品の色んな所に現れてくる。『うる星やつら』で学校の中に戦車を持ち込んだりするのはそういう理由だ。
それで、今回『東京無国籍少女』がこの内容だったから、「まだやっていたんだ」という感じがあった。高校時代の自分の願望を叶えつつ、別のテーマを入れ込んで作った作品……というふうに見るべきかも知れない。
と、ここまでの解説を聞いても「そんなのわかるか!」と思う人も多いだろう。そういう「わかるか!」という人の感想がAmazonにレビューに大量に書き連ねてあった。
なぜこうもわかりにくいかというと、作品に「物語」の提示がないから。
ではAmazon Prime Videoに描かれている「あらすじ」を見てみよう!
本作のメガホンをとったのは、押井守。主役の藍を演じるのは、本作が初の主演作品となる清野菜名。藍を目の敵にする担任教師に、金子ノブアキ。心に傷を負った藍をカウンセリングをする保健教師をリリィ。そして、学校の広告塔として彼女を利用するために校内での治療にこだわる校長に本田博太郎と実力派が脇を固める。ラスト15分で見せる凄まじい戦闘シーンは必見。ガンアクション、コマンドサンボばりの近接戦闘、ナイフを使った殺陣など、国内では見たことのないアクションが息つく暇もないほどに展開されていく。
……おわかりいただけたであろうか? 「物語」について一切言及していない。なぜなら、「物語」がないから。というかこの解説を書いた人も、何が作品のテーマなのか、何が見せ場なのかわからず、とりあえずアクションシーンが最後にありますよーくらいしか書けなかったんだろうね。
『東京無国籍少女』には「物語」がなく、「世界観」だけしかなかった。観る方はその世界観の読み解き方を知らなくてはならない。文脈と教養があることが前提の作品となっている。あの真っ白な世界観が「夢の世界だ」というのは、映画の文脈を知っていればすぐにわかること。その夢世界の脱却しようとあがいている女の子のお話……というのは映画をきちんと観ていると気付く話。
(あと「押井守監督といえば……」の「お約束」を知っていることも前提条件)
でもその世界観について、台詞というようなわかりやすい言葉で説明してくれない。初めて観る……というお客さんについて完全に無視。そういうお客さんのほうへは一切配慮せずに作られている。だから、読み取るための文脈を知らない人からすると、何のお話が描かれているのかすらわらかない作品になっている。
ではなぜ『東京無国籍少女』はこうも「物語」のない作品になってしまったのか?
ここからが「解説」ではなく、私の「感想」に入っていくのだが、もしかしたらこれはいわゆる「日常系アニメ」に対するカウンターだったのではないか……ということ。
押井守著作を読んでいると気付くが、今のアニメには「物語」が喪われた、と語っている。ある種の約束事があり、その約束事の上にキャラクターがいるだけ。個々のエピソードはあるが、大きな「物語」が喪失した。現代アニメは様々な記号を組み合わせただけの複合物に過ぎない……というのは押井守による『エヴァンゲリオン』評だが、これは現代のありとあらゆるアニメに当てはまる。
『東京無国籍少女』は最初のシーンから、永劫に続く「日常」の世界観の提示から映画が始まっている。永遠の日常と、無垢のお話。真っ白な石膏像が出てくるのは穢れなき存在を表現するためのもの。それは2色で塗り分けられ、あらゆる汚れを拒否する現代のアニメキャラクターそのものだ。
映画はその無限に続く日常世界と無垢から脱却するために奮闘する少女のお話になる。少女はレイプされて股間から血を流すし、攻めてきた外部世界の存在――男と戦う。
(『ご注文はうさぎですか?』の感想でも書きましたよね、無垢なる乙女の世界において、男は外部からやってくる存在だって)
どうして舞台が女子校なのか、その中の無垢が描かれたのか、それを読み解くと現代アニメに対する批判だったのかな……というのが私の感想。
では女の子が「無国籍」である理由は?
アニメに出てくる女の子なんて、無国籍なもの。最近のアニメは背景も緻密に描かれ、特定の舞台が示されているけど、あんな顔をした人間なんているわけがない。日本のアニメが世界的に受け入れられている理由の一つは、「国籍性」あるいは「民族性」がないから。
アニメはどの国に持っていても「自分のこと」として受け入れられてしまう。国によっては「アニメキャラクターの顔は、日本人よりも私たち民族に近い!」と言い始める人々もいる。日本だけだよ、「アニメキャラの顔は日本人じゃない」って自覚的に言っているのは。中国人ですら「アニメキャラの顔は日本人より我々に近い」って言っているくらいだから。
どうしてそういう意識を持たせられるかというと、曖昧さから。みんな自分自身の思いをそこに投影させられる。アニメキャラって、本質的に「人形」なんだ。だからどこへ持っていっても、「自分のこと」と感情を託して観ることができてしまう。風景を見るとどう見ても日本の学園ものなのに、「自分のこと」「私たちの青春」と思って受け入れられるのはアニメキャラが国籍も民族も持たない人形だから。
『東京無国籍少女』というタイトルの秘密は、おそらくこういうアニメに対するカウンターじゃないかな……というのが私の感想。
もしかしたら、テーマにあったのは全く違うものだったかも知れないけど。
私は『東京無国籍少女』は物語も国籍も喪った現代アニメへの批評だったのかな……と思って観ていた。
もう一つ、押井守が「物語」を描かない理由がある。
これも押井守著作を読んでいることが必須な話だけど、押井守は色んなところで「わかりやすい物語」に辟易していると語っている。本来物語は、教養と文脈を知っている粋人の読むべきものだった。でも現代の娯楽は「教養」の部分ががっつり欠落し、誰でも読めるような駄菓子のようなものになってしまった。
言語問題で言うと、日本人の文章読み書き能力は明治時代がピークだった、と押井守は語る。明治時代というのは和文漢文雅文と様々な文章の形式があったのだが、その後「言文一致」が隆盛するとそれ以前の文章文化が一気に衰退し、いまや教養人と呼ばれる人ですら言文一致しか読み書きできなくなり、和文や漢文といった文章はほとんどの人が読むことすらできなくなってしまった。それこそ「教養の欠落」である、と語る。
(「わからない! どうしてわかりやすく作ってくれないんだ!」という人の感想を読むとね……いや、あなた勉強しなさいよってさすがに思う。この受け身感覚、「お客様感覚」が現代人の堕落した部分だよな……とは感じている。思考力がなくて、感情でしか判断できない、あの感じ)
(Yahoo映画感想とか99%くらはゴミ。単に感情を吐露しているだけだもの。自分自身の感情については語られているかも知れないが、作品については何も語っていないもの。誰一人映画の話をしていない。あの無意味なサイト、なんで存続しているんだろう……)
映画を読む場合においても、教養で読み解く映画というものがあるべきじゃないか……というのが押井守の考え方だ。何もかも解説される映画ではなく、観る側の教養で読み取り、意味を理解していく。そういう映画も大切じゃないか。
だから、押井守映画はわかりやすい物語を廃し、画としての提示だけがある。あとは観る側次第……という映画の作り方をする。
あとは作品自体が「面白いかどうか」問題。
これは作品が描いているものが美しいかどうか……だけど。
正直なところ、画はさほど美しくなかった……というのが私の本音。どうにもセットにしてもカメラの深みにしても安っぽいな、軽いな……という気がしてしまった。『東京無国籍少女』には気持ちを預けておけるほどの官能的な美が表現されていない。
押井作品にかつてあった美はどこへ行ってしまったのだろうか。こういうところで、私が『東京無国籍少女』を面白がりきれない理由だった。