1月13日 動物は死の不安を感じるか?
動物ドキュメンタリーを見ていると、野生動物が獲物に襲いかかり、その喉元に噛みついて素早く絶命させる……という場面がよく描かれる。
野生動物が獲物を速やかに絶命させるのは、「獲物の逃亡」を防ぐためだが、もしかして死んでいく生き物に対する「哀れさ」や「恐れ」が理由だったりしないだろうか……。
映画『アバター』では、野生動物を狩猟する際、その動物を苦しませないために速やかに命を絶ち、その後動物に敬意を示し、感謝の言葉を呟く……という場面がある。ああいった光景は映画の中だけではなく、狩猟採取民族が実際にやっていることだ。狩猟採取民の精神性を表現するために、『アバター』では西洋文明人が考えつかなかったような場面を描き込んでいる。
人間はある程度大きさがあって、体温が感じられる生き物を殺すことに、抵抗感がある生き物だ。虫や魚を殺すことは平気だが、鳥や猫や犬を殺す……という時、躊躇いが現れる。哺乳動物が血を流し、苦しむ姿を見るとストレスを感じるようにできている。
人間がどうして「幽霊」という不思議なものを見るのか……というと「後ろめたさ」があるからだ。生き物の死に猛烈なストレスを感じるから、その死を受け入れようとして、やがて幽霊という幻影を見るようになる。
スペインのラスコー遺跡の壁画には、狩りの場面がえんえん描かれている。狩りの場面……つまり動物を殺す瞬間だ。ラスコー遺跡のあの壁画は、自分が殺してきた動物たちの鎮魂のために作られた……みたいな説がある。昔の人も、食べるために殺してきた動物に対して「ごめんなさい」の意識があったのかもしれない。
ただ、これもたくさんある「説」の一つであって、ラスコー遺跡が正確にどういった意図をもって作られたのかは、今でも不明だ。
日本では昔、武士の家庭に生まれると、幼いうちから母親に死体を観に行かされるそうだ。近くであった合戦跡であったり、処刑場だったり、そういう血なまぐさいものを子供に見せていた。
なぜなら武士は結局のところ「人を殺すこと」を生業としているからだ。大人になって人を殺せる人間になるように、早くから教育する必要があった。
刀を持っての殺し合い……というのは双方に過剰な緊張が伴うものだ。現代の「剣術の達人」と言われる人でも、真剣を持たせて向き合わせると、手が震えて腰が引けてしまうという。殺し合うということはそれだけの緊張感が伴う。時代劇で見るように、鮮やかに人を切って回る……なんてことは真っ当な精神ではそうそうできるものではない。
人を殺す業を背負えるために、子供のうちから苛烈な精神教育を受けねばならない。それが武士の家庭に生まれた子供の宿命であった。
今時の子がもしも異世界へ行ったところとて、容易に生き物を殺めたり……なんてことができたりするわけがない。もともとサイコパスの資質のある若者であれば、話は別だが。
アチェ族という現代でも狩猟採取の生活を続けている一族がいる。
アチェ族の中では、一族の構成員として「相応しくない」と判定された人はすぐに殺される。自分の親であろうが、子供であろうが、平気で殺す。食料が限られている世界だから、仲間のうちの誰かを殺すことは、アチェ族の中では当たり前のことなんだそうだ。
といっても、アチェ族は殺伐とした民族ではない。むしろ穏やかで牧歌的な性格の人々だ。「微笑みの民」という異名すらある。ただ食糧問題を常に抱えていて、村の成員を一定数に保つ必要があり、昔から「同胞殺し」に抵抗感がまったくなかったという。
アチェ族の現在の悩みは、文明人と交流するようになった若い一族が、自分の親や息子を殺すことを躊躇うようになったことだという。文明人と接することによって、初めて人を殺すことへの「罪悪感」に目覚めたそうだ。
というアチェ族だが、父親や息子を殺すことに本当に罪悪感がなかったのか? 掟だったから、感情は動かなかったのか……というと、そうじゃないだろうと考える。一族を守るために、罪悪感を飲み込むだけの意思の力を持っていたんじゃないのか……と、私は考えるのだが……。
人間の世界もいろいろで一方で生き物を殺すことに抵抗感やストレスを感じている人々がいるが、もう一方で親や息子を殺すことが当たり前だから平気……という感覚の人々もいる。そういう習慣の世界に生きてきたから……というしかないが、殺すことに関しても感受性の違いというものがある。
さて、動物たちはどのように感じているだろうか?
猫だって飛び移りに失敗すると、恥ずかしそうにする。
犬だってイタズラが見付けられると気まずそうにする。
「動物に感情はない」というわけはない。動物にもはっきり感情がある。人間は言語に翻訳されていないものは「存在しない」と考える悪癖がある。だから言語を持っていないという理由で「動物には感情はない」と思い込みがちだ。でも動物と共に暮らしている人は、動物に様々な感情があることをよく知っている。
そういえば昔、実家でインコを飼っていたのだが、ある時、インコが朝から大騒ぎをしていた。檻にすがりついて、人間に何か訴えている様子だった。
檻の中を覗き込むと、インコの中の一匹が死んでいた。昨日までは元気だったが、突如死んでしまったのだ。もう一匹が仲間が死んでいることを伝えようとしてくれたのだ。
その時、インコでも死を認識できることに驚いた覚えがある。
でも、インコは驚いてそうしたのか、悲しんでそうしたのか、わからない。檻の中に死体があることが怖かったからか? ただ「異常が起きた」ということを人間に知らせたかっただけだったのかも知れない。
インコが死体に対してどういう感情を抱いたのかは読み取ることはできなかった。
ネットの猫動画を見ていると、時々小鳥と一緒に暮らしている猫を見かけることがある。猫と小鳥は本来「狩る対象」と「狩られる対象」だが、食糧事情が満たされている家庭の中で一緒に生活させると、普通に友人同士として接するようになる。
こういった映像を見ると、なんとも不思議な気持ちになる。明らかにいって、猫は小鳥を大事にしている。爪でひっかいたり牙を剥き出しにしたりしない。小鳥に対して大事に大事に接している。その様子が牧歌的で可愛い。
もしもその小鳥が死んだ時、あの猫は悲しむだろうか?
小鳥のほうが早く寿命が尽きる。その時、猫はどう感じるだろうか。
さて野生動物だ。
野生動物が獲物に食らいついた時、絶命するまで血を流しピクピク震えている動物に対して、「ごめんなさい」の気持ちはあるだろうか。死んだ動物を見て「怖い」という感情はあるだろうか。生き物を殺すことにストレスを感じているだろうか……?
大型野生動物にもなると、知能はかなり高い。家犬や家猫よりもさらに知能は上。その知能の中に、動物の死に対する感受性はあるだろうか……?
といっても、そんな話は動物が喋らないと聞き出せないような話だ。人間は動物の気持ちを永久に知ることはできない。
じゃあ、そういうお話を物語の中で書こうかな……。
とらつぐみのnoteはすべて無料で公開しています。 しかし活動を続けていくためには皆様の支援が必要です。どうか支援をお願いします。