『死にたい』は『僕の頑張る』を食べて僕の心の中に居座ってる
こういう情勢下でこういうタイトルを書くのは悩んだけど、心の中にあるものを見直そうと思って書いている。
他の人から見れば些細な事でも、本人にはどうにもならない壁がある。
その壁が重くなればなるほど、死にたい気持ちが強くなる。
その気持ちを噛み殺しながら生きてる人も世の中にはたくさんいると思う。
昨今のウイルス騒動でも、いつもと変わらないように振る舞うって本当に難しい事だと思う。
経営者なら従業員を食わしていけるか悩むだろうし、サラリーマンだっていつ仕事がなくなるか分からない。
こんなご時世、何も感じないとしたら、それは鈍感力を極めてる人かもしれない(そして、その生き方ができる人は本当に羨ましく思っている)
大人だって不安だ
よほど安定した仕事をしてる人以外は、職が保証されるかも分からない状態だったりするし、僕みたいな自営業&フリーランスといった人や、中小企業の人は、明日からの仕事がどうなるか気が気でなかったりする。そんな時、必要以上に怯えても仕方ない。とはいえ、心の奥底は誤魔化せない。その歪みがいろんなところに出てくる。いつもと違う仕事体系。リモートワークは集中力を維持するのも難しい。連絡も取りにくくなる相手も出てくるし、仕事の仕方も変わってきて、いつもと同じように進められない。
ある程度は仕方ない。心の中に生まれた不安の種を押しつぶして、誤魔化して、見ないようにして日々を乗り越えていく。でも、
「あー、無理かも」
って思う時がどうしても出てくる。自分にとって、久々に客先に出向いて、ここしばらくの方向とかを打ち合わせた後、銀行に立ち寄って外注費の支払いとかやって、ふと街中をみた時に、いつまで耐えられるかを考えて漠然とした不安に包まれた。
そう思って、急いで帰り体を横たえた。
疲れはあるのですぐ寝入ることができる。
そして、すぐに子供が帰ってくる。
妻が帰ってくる。
「パパ、寝てるみたいだよー」
「少し休ませてあげようねー」
そんな声が聞こえる。
夕飯の準備もしなきゃいけない。
家にいたら家にいたで、やることは山ほどある。
でも、体が動かない。
何も聞かずに休ませてくれる妻がありがたい。
30分ほど放心してた。少し、少しだけ楽になった。
休ませてくれる人がいる。
僕に、やるべきことを与えてくれる人がいる。
もう少し頑張ってみるか。
今日も、そうやって生きることができる。特別でない。
誰も分かってくれる事では無いだろうけど、自分で自分を褒めてあげる。
そうやって、頑張ってくことが、小さな澱となって、積もって・・・
不自由な生き方、自由な生き方
家庭があるのは不自由だ、という人がいる。
確かに独身の時みたいに好きに遊べるわけでない(結婚しても、家事もせず、ご飯たべてソファーで寝転んでテレビを見てる・・・なんて昭和な人だって、奥様の溜息とか聞けば、独身時代より息苦しいと思うだろう)。
ましてや、うちは共稼ぎだから、家事は半々(むしろ、うちの場合は、女性の方が体力がないからという事で、日常の分かりやすい家事は僕の方が多くやっている)
僕がやらなきゃ・・・という負担と、義務。
でも、こういうのが無かったら、僕は何のために頑張る気持ちを奮い立てることができただろう。
先人が「なんだかんだと家族が大事」とよく言ってたが、それを痛感する瞬間。人は自分のためだけに頑張るのは難しいんだとおもう。どんなに疲れていても、自分の中にある芯の部分、そして、その自分を支えてくれる家族の存在。
ありがたいなぁ、て思う。
結婚する前は、家族がそんなに大切な存在になるとは思わなかった。そんな激しい恋愛結婚でもなかったし、むしろ恋愛に疲れた二人が流れ着いた先の結婚みたいな感じだったし。
家族は大事。
だから、頑張れる。
でも・・・
いつ死んでもいい、けど・・・
家族は大事。
でも、何かの不幸があって、自分が死んでしまったとして、家族に対して申し訳ないという気持ちはあるけど、
「これでいろんな事から楽になれる・・・」
と、思う気持ちもあるだろうなぁ、と思う。
積極的に死を選ばないにせよ、死んだら死んだでまぁ仕方ないと考えてる人は意外と少なくない気がする。忙しさで、心が死ぬとはよく言ったもんで、鬱ぽいのが潜んでるけど見ないように生きてる人はそこそこの数がいそうな気がする(ステルス鬱っていうんだっけ?)
いつ死んでもいいって思って頑張れ、と言われても、今でも頑張ってるし、明日、死ぬなら頑張らずに休みたいし・・・、ポジティブな言葉には反発しかなくて、ただただその日その日のタスクをこなして生きてる。死にたいというか、生きるのをやめたい。辛い事ばかりじゃないってわかってる。楽しい事もうれしい事もいっぱいある。
でも、疲れる。
家族がいることがチカラになると同時に、知らず知らずのうちに頑張りすぎて心を圧迫していた感じがする。妻が、そっと休ませてくれた時
「あぁ、頑張りすぎなくてもいいんだな・・・」
て、思ったら少し楽になった感じがする。
こんな状況下だからメンタルケアは本当に大事
大事なものがあるから頑張る、と、頑張りすぎないように気を付ける、はアクセルとブレーキみたいなもので、どちらか片方が入りすぎても上手くいかない。特に、「頑張る」はある意味、呪いの言葉で、頑張るって言葉は普段、良い意味でとらえられる言葉だし、そのポジティブワードは裏返せば「頑張らないのはダメ」ということに繋がるし・・・でも、行き過ぎると確実に心が壊れる(さらにタチが悪い事に、頑張ってる間は、壊れてることに気づきにくい)
(これは僕の場合に限るのかもしれないけど)「頑張る」は生きる糧であると同時に、「頑張る」が「死にたい」を誘発しているんじゃないのかな、とさえ思ってしまう。今まで、忙しくて「死にたい」なんて考える余裕すらなかった。自粛の今、ふと立ち止まった瞬間に、自分がどれだけ不安定な場所にいるか気づいてしまった。
このご時世あちこち自粛で、人によっては不本意に自由な時間が増えてしまっていると思う。そういう時に普段できないことを頑張りすぎてしまう人もいるだろうし、時間を持て余す人もいるかもしれない。所得が減ってしまってる人もいるだろうし、それでも前向きに頑張ろうと自分にムチ打ってる人も少なくないだろう。
どう考えても、今は健全なメンタルを維持できる状況でない。
ご時世だからこそ、健全なメンタルを維持することは出来る限り取り入れたい。ゆっくり寝る、日に当たる、適度に体を動かす、お風呂にゆっくり浸かる・・・負担に思うものは手放していく。手放す事が苦しかったとしても、自分が倒れたら元も子もない。
それらは根本的な解決にならないかもしれない。
今回の騒動は人が一人でメンタルコンディションをどうこうできるような状況ではないけど、やらないよりは、コンディションを安定させることを第一に考えていかなきゃいけないと思う。
結論:見つかってないし、頑張る限り「死にたい」はついて回るんだろうけど・・・
で、結論・・・なんだけど、答えは出てない。
今まで通り、それなりに僕は頑張るだろうし、「死にたい」という気持ちはその頑張りを食べながら僕の中で生き続けていくのだろう。とはいえ、人は欲深い生き物だから少しでも環境をよくするために頑張る生き物だから、「頑張らない」ってのも、意外と難しい。
答えは出てないけど、そのあたりの自分を見つめなおす事ができたのが、結論といえば結論なのかな、と思ってる。
先日、妻が何も言わずに休ませてくれたのがずいぶん楽だったから、僕も
「今は頑張れない時期だわー」
と言語化していく必要がある気がする。
そうすれば、少しは一人で抱えずに済むのかな?なんて事を考えている。
同じように「死にたい」が心の中に居座ってる人がいたら、貴方なりの対策を教えてくれたらうれしいです。
(追記)たまたま他の方のnoteを見てたら娯楽の大事さを書かれてた方がいましたね。
本当に、娯楽を楽しめる気分じゃないってのがマズイなぁ、と思う。こういう時こそ、気持ちを和らげる娯楽は超・重要。
生きるのに疲れた・・・そういう気分は、そう簡単には無くなってくれないと思う。でも、ここで諦めたら、いろんな人に迷惑になるし、同じ『生』であっても楽しんだ方がお得だからね。
おまけ:せめて、このご時世、お金の不安ぐらいは減らしてほしい
こんなご時世だからこそ、個人でできないことを出来る政府には、ヘタな制限なんかつけずに一律で生活費を支給してもいいと思うけどね。ヘタに制限つけたら、その制限事項の確認で、役所の負担が増えスピードが下がり、役所に人が集まり、余計にウイルスが蔓延しちゃうんじゃないかと危惧してる。それなら、一律で支給した上で、高所得者の方には返金ないし緊急課税のお願いをする方がスムーズに運用できる気がするよ。
このまま・・・所得制限つけて商品券を配布するなんて愚策を進めちゃって、役所に人があふれてコロナが蔓延したら、それは天災じゃなくて、確実に人災だから。
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