見出し画像

幸せについて/日だまりと太陽

 これを書きはじめたのは8月のこと。いつの間にか、金木犀が香る季節になってしまいました。投稿時期を逸したので、書き出しを書き直している。そんなお粗末な話。言ってみれば、供養みたいなものです。

 最近、マンガの話が多いのですが、『ベルセルク』も大好きな作品です。高校生のとき、同級生に借りて読んだのですが、もう本当に衝撃的すぎて。緻密で美しい絵はもちろんのこと、ストーリーも人物も魅力的で。世の中にこんな漫画があったのかと、なけなしの小遣いですぐさま全巻揃えました。

 私事ですが、僕の母は結婚する前、雑誌で漫画を連載していたそうです。だから僕の本棚にある漫画を読んでは、いちいち批評をしてくるのが常で。ただ、褒めることはあまりなく、ダメ出しの方が多かった気がします。

 でもその母が、三浦先生の『ベルセルク』には、何も言いませんでした。ただひと言だけ「次はいつ出るの?」と。なにが気に入ったのか聞いたら、画の丁寧さと人物の心理描写がすごい。そう言っていました。

 読み始めた頃は、迫力のある戦闘や、残酷な描写に惹かれていましたが、今では「ひとの気持ちの表現」こそ、魅力的だなと思うようになりました。本当に、すごい作品ですね。

 その『ベルセルク』の好きな台詞に「さよなら、私の日だまり」というのがあります。どんなシーンか説明するのは野暮なので、割愛しますけれど。僕はこの『私の日だまり』という表現に、心が動くのを感じたのです。

 ふと気になって、”日だまり”の意味を改めて調べてみると、日だまりとは「日光がよく当たり、暖かくなっているところ」でした。似たような言葉で日向ひなたもありますが、こちらは「日光が当たる場所」を広く指すそうです。

 日だまりも日向も、元々は太陽の光。その太陽というのは、言ってみれば核融合反応をしているガスの塊です。でもそれを、ありがたいと感じたり、幸せな日々の象徴のように想ったりするのは、素敵なことだと思うのです。

 日だまりは、いつも当たり前のようにそこにあって、居心地のいい場所。でも本当は当たり前なんかじゃなくて。ありがたい、かけがえのないもの。そういうことなのかもしれません。

 以前、幸せは呪いかもしれないという話を書きました。呪いなんていうと物騒な感じですが「強く求める気持ち」という意味では、願いも、呪いも、似ているような気がします。

 「何が幸せか」というのも、結局その人の受け止め方次第なのでしょう。太陽の光を、ただの恨めしい日差しと思うか、暖かい日だまりと感じるか。感受性の違いと言ってしまえば、それだけの話かもしれませんが。

 自分には”日だまり”なんてない。心の安らぐ場所なんてない。そんな風に感じてしまうこともあります。でも、太陽が朝、顔を見せてくれるように。あなたにとって日だまりのような場所が、いつか見つかるかもしれないと。そんな風に思えたらいいのですが。

撮影ワールド:Ricocheive/knfoxl さん

いいなと思ったら応援しよう!