あいみょん「生きていたんだよな」 最後のサヨナラは他の誰でもなく 自分に叫んだんだろう
まず、あいみょんさんの「貴方解剖純愛歌」を息子に教えてもらってから、その後、この「生きていたんだよな」を聞いた。
こりゃ、とんでもない曲だと圧倒された記憶しかない。「こんな曲を歌う子がいるんだ」と衝撃を受けた。
この「生きていたんだよな」がメジャーのファーストシングルで、2016年11月30日にリリース。この曲をデビュー曲にする勇気と、決断力に敬意を表する。
ただ、今のあいみょんの方向性は、こういったセンセーショナルな部分は少なめで、恋愛、失恋などのせつなさを歌うことが多い。
おじさんとしては、根底に「解剖」や「生きて」があるあいみょんが歌っている恋の歌だから、今も動向を見守っているという感じ。こういう魂の表出というか、持って行き場のない怒りのようなものをまたいつか歌ってくれないかしらと、期待している。
50歳になってなお、闘い続けるスピッツのように。あいみょんさんにも原点回帰があればいいなあ・・・なんて。
では歌詞を見ていく。
このあたりは、歌というよりは、独白、セリフのような形で進んでいく。
もうこのフレーズだけで、現代を表現しているよね。
ニュースが「血まみれセーラー」なんて、流すわけがないんだけど、ネットの情報も、個人発信のものもすべて「ニュース」だと表現する感覚はとても今っぽい。
「ネットの餌食」という言葉は、残酷で的確。今、あらゆる市井の人たちが「現場記者」として、「報道」しており、本物の記者よりもよっぽど現場に近い。すべての悲惨が、ネットの餌食になり得る時代だ。あいみょんがこの曲をつくった2016年当時も、既にそうなっていた。
野次馬の習性をこんな風に歌うなんて、見事。
「綺麗で」の部分から、ものすごく華麗に歌に遷移していく。
圧巻。テレビを見ている側が感情移入し、不安定になっていく表現を「ブラウン管の外側で」とつづって、「他人なのに、なんか申し訳ないけど」感を創出している。
サビは
生きての繰り返しから、「生きていたんだよな」と力強く歌う。誰を責めるわけではない。決して、自殺した子も責めない。生きていた方がよかったとも言わない。
この曲のクライマックスが次の部分だ。
かすかに自死者を尊重するような同意が込められている程度で、決して自殺を賛美はしていない。
たぶん、10代のあいみょんさんがこれほどセンセーショナルな曲をつくったのには、自身の現状に対する不満や違和感、さらには、自殺する人への憧憬に似たような若干の同意のようなものがあったのではないかとひそかに分析している。
あいみょんのニューアルバム「瞳を落ちるよレコード」では、「ペルソナの記憶」「インタビュー」あたりはかなり、「あいみょん毒」が盛り込まれていて、おじさん好み。またの機会に。
2022年9月19日 トラジロウ