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野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第一話 大黒屋光太夫(その8)

★ヘッダー画像:(光太夫たちが根室へ向かったオホーツクの地図(1737年)(詳細はページ末に)

←(その7)からのつづき

第一話 大黒屋光太夫(その8)


【4】(のつづき)

 だが、送還船に乗った漂民は結局、光太夫、小市、磯吉の3人だけだった(磯吉は、住み込みでの働き先の鋳物師の娘と恋仲になったが、別れることに決めた)。
九右衛門は病死。墓地に埋めてもらえるというので最後に洗礼をうけた。
新蔵は、大病をした際に洗礼をうけた。まさか自分が回復し、一行の帰国嘆願がかなうとは思わなかったのだ。ロシアの女性と結婚し、日本語教師となる。

光太夫は、イルクーツク出立の日の早朝まで、あえて庄蔵には帰国のことを話さなかった。庄蔵との別れの場面が、『北槎聞略』にはこう描かれている。

 ――いつまでおしむともつきせぬなごりなれば、心よわくては叶わじと、かの邦のならいなれば、つとよりて口を吸い、思いきりてかけ出せば、庄蔵は叶わぬ足にて立ちあがり、こけまろび、大声をあげ、小児の如くなきさけび、悶えこがれける。道のほどしばしのうちは、その声、耳にのこりて、腸を断つばかりにおぼえける。

*「魯西亜国漂舶聞書巻之九」山下恒夫編纂『大黒屋光太夫史料集 第二巻』日本評論社
p598-599〔別れを惜しむ磯吉と小市の図〕〔別れを惜しむ新蔵の図〕=同書キャプション
→*画像について


 1792年10月7日(寛政4年9月3日)、キリルの次男アダム・ラクスマンを使節とする漂民送還使が根室に到着した。
(ここで小市は壊血病で無念の死をとげた。)

寛政五年六月八日入港・七月十七日退帆函館渡来露船エカテリナ号乗組員像 / 
アタムキリ《光太夫が世話になった(光太夫が世話になったラクスマンの子)
著作者:不詳(日本の画家) パブリック・ドメイン

松前藩からの急報を江戸で受けた老中首座松平定信の対応は、苦慮をきわめた。漂民送還の恩義ゆえロシアとの関係は拒否できないが、今すぐの開国は無理だ。
松前での3度の交渉の末、将来の通交を匂わせる長崎への入港許可証信牌しんぱい)の授与という条件で、合意が成立した。

(その9)へつづく

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→第一話 大黒屋光太夫(その1)へ(文末に著者プロフィール)

★参考文献

ヘッダー画像:(光太夫たちが根室へ出航した)オホーツクの地図(1737年)(Map of Okhotskoi Ostrog, ink drawing, 1737 (State Marine Archive St. Petersburg) 著作者:不詳 パブリック・ドメイン
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ochotsk_(1737).jpg

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