栗林佐知「かたすみの女性史」第1話 死の声――古河為子のこと (その1)
(その1)
明治34(1901)年11月30日、朝のこと。
東京は神田橋の下で、電信地下線の工事(一説には、船荷の荷揚げ作業)をしていた作業員が、上げ潮に乗って川を上流へ押し上げられてゆく人を発見した。
巡査を呼び、引き上げてみると、それは六十歳ほどの婦人で、すでに亡くなっていた。着物の品の良さや、小さな丸髷につけた櫛や笄(よく抜け落ちなかったものだ)から、良家の内儀らしいと思われたが、お守袋の他に持ち物はない。
だがすぐに身元がわかった。
通りかかった男が駆け寄り、息をのんで言ったのだ。
「これはわが家のおかみです。夕べから行方不明で、皆で探していたのです」
男は、丸の内に本社のある「古河商店」の番頭、混田(昆田)文次郎。婦人は、かの「銅山王」古河市兵衛(ふるかわいちべえ)の妻、為子(ためこ)だった。
亡骸は近くの知人(弁護士)宅へ運ばれ、日本橋瀬戸物町の古河家から、養子の潤吉はじめ家人たちが迎えに来、吊り台に乗せて連れ帰ったという。
為子の死を報じた、翌日12月1日付の新聞「萬朝報(よろずちょうほう)」は言う。
《ただ望む。市兵衛たる者、爾(なんじ)がかかる運命に接したるは、是、心機一転の時期なるべきを悟り、亡き妻によって残されたる一大訓戒の意味をば正しく了解して、人道の為の尽くすの人ならん事を。》
「市兵衛よ、妻の死をイマシメと受けとめ、心を入れ替えよ!」というのだ。
なぜなら古河市兵衛は、「鉱毒王」として“悪名”とどろく「時の人」だった。彼の経営する「足尾銅山」は銅精製廃棄物を渡瀬川に流し、下流の村々(栃木県足利郡、梁田郡など)を10年以上も汚染し続けていたのだ。
世論は、被害民への同情と、責任を取らない古河市兵衛・政府への怒りでわいていた。折しもこの日の前日、11月29日には、鉱毒地救援の演説会が、神田美土代町の青年会館で大盛況のうちに催されていた。
***
筆者が古河為子のことを知ったのは、30年近く前。永畑道子『華の乱』(文春文庫)という女性史のオムニバス評伝を読んでのことだった。
……ため子は救済会で現地の惨状を知り、《消え入りたいほどの》気持ちになったに違いない、そして、《何十万というひとの恨みをおもえば、自分の命を断つほかなかった。》(永畑道子『華の乱』文春文庫、p18)
会社帰りの電車の中で読んで、涙が吹き出した。
いったい、20代終わりの自分が、なんだって100年近く前の60代の女性の死に、そんなに心をどよめかされたのか。今、すっかりふてぶてしくなってしまった心で、一生懸命思い出してみる。
たぶん共鳴したのだ。確かに「共鳴した」と感じたのだ。為子の死に、言葉にならなかった「叫び」を聞いた気がしたのだ。
また常日頃から、台所で洗剤を使えば川の魚たちを損ない、メイドインアジアの安い品物を買えば、現地の人たちの搾取に加わり、電気のスイッチを押せば、ふるさとに原発を作られた人たちの「加害者」になっているのだと、まじめな罪悪感も抱えていた。
なりたくもない加害者の立場からぬけられない者の、表だって表明することが許されない、ぎりぎりの良心の叫び。為子と私たち現代人は、同じ立場に立っているじゃないか、と。
しかし、それにしても実際、人間、「私には罪がある。死んでお詫びをするのが筋だろう」と思ったとしても、それで死ねるだろうか。ふつうなら、なんとか理屈をこねてでも、生きていたいのではないか。
本当のところ、為子は何を考えていたのだろう。なぜ死んでしまったのだろう。私の「共鳴」は当たっているだろうか。それより何より、為子はどんな人だったのだろうか。もっと、為子のことを知りたかった。できれば、ため子の肉声を聞きたいと思った。
29歳から30歳にかけて、コピー代の高さに泣きながら、国会図書館に通った。結局、わかり切らなかった。200枚ほどのレポートにしたものの、それから25年、放置していた。その時調べたことを、いま、当時の思いを思い出しながら、まとめておきたい。
***
為子の死の背景を知るためには、やはり、足尾鉱毒事件のことを知っておかねばなるまい。
以下、ざっと追ってみよう。
渡良瀬川下流の村々は、もともと、田畑の実りも豊かで、川魚漁や養蚕もさかんな土地だった。
だが、明治18年ころから、川漁の漁獲高が急に減り、魚が腹を見せて死ぬようになり、明治23年には、洪水をかぶった農作物が全滅した。
村人たちは、東京帝大農科大学の若き助教授、古在由直の協力で、汚染の原因を突き止め、県会に訴える。
また同じ頃、開設されたばかりの「国会」でも、被災地のために頑張ってくれる人がいた。国会議員の田中正造だ。田中はただ一人、被災民の待ったなしの惨状を訴え、政府に「鉱毒停止」を求めた。
だが、田中の追及を受けた農商務相、陸奥宗光が、カミソリと呼ばれる頭脳から繰り出すのは、絶妙な詭弁ばかりだった。日本の大臣は、その歴史が始まった時点から、財界と癒着していたのだ。なにしろ、わかりやすいことに、陸奥の次男の潤吉は古河市兵衛の養子だった。
これがもし、米が経済の中心だった江戸時代だったら、「おかみ」はただちに村と田畑を守るべく、動いたのではないか。けれど世は、殖産興業、富国強兵の時代だった。産業が人命より尊い時代がやってきたのだ。
いっぽう、鉱毒の張本人である古河市兵衛はといえば、圧倒的な財力と政治力を駆使して、ひたすら“足尾銅山を守った”。
古河は、県会の仲介のもと、農民たちと示談を行い、「すぐに粉鉱採集機をとりつけるが、効果があがる3年間は文句を言わないこと」と条件を付け、農民たちに賠償金でなく「徳義上の見舞金」を払い、その3年がたたないうち、日清戦争(明治27年)のどさくさに紛れて、農民たちに示談金(1年分の肥料代にもならない額だった)を受け取らせ「永遠に責任を問わないこと」と約束させてしまう。
だが被害はいっこうに止まらない。原因を突き止めてから10年が過ぎていた。
このままでは生きていけない。
農民たちは大挙して徒歩で上京し、鉱毒停止を「おかみ」に訴えた。1度では目的が達せられず、2度、3度と農民たちは東京へと押し出した。
3度目の上京は、明治33年2月。総勢3千人で出発した。
利根川の川俣橋附近まで来ると、待ち伏せしていた警官隊が、丸腰の農民たちに襲いかかった。そして、なぜかボコボコにされた被災民たちの方が「騒擾罪」で投獄される。世にいう川俣事件だ。
ひどすぎる!!
この事件を知った人々は憤り、農民たちに厚く同情した。川俣事件をきっかけに、鉱毒問題に世間の注目が集まったのだ。
「毎日新聞」*(主筆:島田三郎)の木下尚江、松本英子や、「萬朝報」(主筆:黒岩周六)の堺利彦、幸徳秋水、内村鑑三ら、ジャーナリストたちが反鉱毒の論陣を張り、基督教婦人矯風会(きりすときょうふじんきょうふうかい)の潮田千勢子をはじめとする社会運動家たちが、被害地救済に乗り出した。
為子の死の前日、神田美土代町の青年会館で開かれた「鉱毒地救済演説会」には、立錐の余地もないほどの人が集まり、涙と熱い拍手の中、鉱毒被害地救済婦人会の創立が決まり、たくさんの寄付が寄せられた。
→(その2)へつづく
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◆著者プロフィール
栗林佐知(くりばやしさち):小説家。
1963年、札幌市生まれ。神奈川県育ち、国立富山大学人文学部卒業(文化人類学)。
窓ガラス清掃、編集プロダクション勤務などを経て、35歳から小説を書く。2002年、小説現代新人賞、2006年、太宰治賞受賞。活躍の場を作るため、同じような立場の作家に声をかけ、短篇小説を愉しむ「吟醸掌篇」を創刊。ひとり版元「編集工房けいこう舎」編集人。
著書に『ぴんはらり』筑摩書房、『はるかにてらせ』『仙童たち 天狗さらいとその予後について』ともに未知谷。
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