野口良平「幕末人物列伝 攘夷と開国」 第一話 大黒屋光太夫(その1)
第一話 大黒屋光太夫 (その1)
【1】
江戸時代の暦では、天明2年12月13日(西暦1783年1月15日)の巳の刻(午前10時)のこと。
あやしい雲行きのなか、伊勢白子の港から一隻の堅牢で大きな和船が江戸をめざして出帆した。
船の名は神昌丸(しんしょうまる)。
千石積みで全長約27メートル、高さ約25メートルの帆柱1本をかかげるその弁才船〔列島内の海運専用の帆船〕の乗組員は、総勢17人。
乗組員と積荷の無事運搬を託された船頭の名を、大黒屋光太夫といった。このとき32歳。身長1メートル73センチの偉丈夫だった。
光太夫は、宝暦元年(1751年)、伊勢亀山藩領南若松村(白子から4キロ近く北)で船宿をいとなむ亀屋四郎治の子としてうまれた。幼名は兵蔵。母の名は、法名の妙伯だけがつたわる。
14歳のころ、母方の親戚のつてで江戸の木綿商の出店に奉公に出る。この修業期は、都市文化が活況を呈していた老中田沼意次の時代だった。
安永7年(1778年)、28歳で帰郷。
母の懇願で婿養子となって亀屋の分家を相続し、四郎兵衛と名乗ると、義兄の大黒屋彦太夫から廻船の賄職〔積荷の帳簿つけ〕にさそわれ、船乗りになった。
やがて沖船頭に昇格。名も今のものにあらためた。
船頭の心得として光太夫は、節用集と浄瑠璃本をつねに手ばなさなかった。節用集は日本語辞典で、実用書。浄瑠璃本は人形劇の台本で、いわば文学書。
それに尺八、猫1匹(鼠とりに活躍したかもしれない。カムチャツカまで渡った)。
また彼に日誌をつけ、物事を克明に書き記す習慣があったことは、10年におよぶ漂民体験をめぐる貴重な記録や物語を私たちにもたらした。
光太夫と行をともにした神昌丸乗組員の名を、判明している出帆時の年齢とともに記しておくと、
親仁〔水夫頭〕三五郎(65歳)、
楫取〔航海士〕次郎兵衛、
賄 小市(36歳)、
水主〔水夫〕九右衛門(55歳)、幾八(42歳)、庄蔵(31歳)、
清七(29歳)、藤蔵(24歳)、新蔵(24歳)、藤助(23歳)、
磯吉(19歳)、長次郎、勘太郎、安五郎、
炊〔水夫見習い〕与惣松(15歳)、
上乗〔蔵米運搬の立会人〕作次郎。
11月から12月にかけての出航は、西風や北風の影響で悪天候が多く、海難事故も多発する。
海外渡航を禁じた徳川政権は、造船技術や航海術の発達にもブレーキをかける方針をとっていた。
戦国時代の列島では、西洋帆船クラスの大型帆船が海外とも往来していたが、徳川家康の時代に帆は1枚に限られた。
一枚帆の船は、順風をうけさえすれば船脚がはやく、列島内の航海には適するが、重心が高くて安定を欠く。また、風をあやつれない船の向きを強引に変えるため設置された巨大な可動式の舵は、風波で破損する危険がある。
江戸時代の和船は、嵐にあえばひとたまりもないという構造上の弱点をかかえていたのだ。
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◆著者プロフィール
野口良平(のぐち・りょうへい)
1967年生まれ。京都大学文学部卒業。立命館大学大学院文学研究科博士課程修了。京都芸術大学非常勤講師。哲学、精神史、言語表現論。
〔著書〕
『「大菩薩峠」の世界像』平凡社、2009年(第18回橋本峰雄賞)
『幕末的思考』みすず書房、2017年
〔訳書〕
ルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ』共訳、みすず書房、2011年
マイケル・ワート『明治維新の敗者たち 小栗上野介をめぐる記憶と歴史』
みすず書房、2019年
〔連載〕
「列島精神史序説」(「月刊みすず」2020年7月号~2022年9月)
「幕末人物伝 攘夷と開国」(けいこう舎マガジン)!!!!!!
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