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林浩治「在日朝鮮人作家列伝」05 呉林俊(オ・イムジュン)(その2)
呉林俊──激情の詩人の生涯(その2)
林浩治
1)『記録なき囚人』 ①入隊
呉林俊は詩集と評論集は多く残したが、ノンフィクションとしても物語性のあるものは『記録なき囚人』だけだ。
『記録なき囚人』は1969年に三一書房から出版され、1995年に社会思想社現代教養文庫に収録された。現在は、文元社「教養ワイドコレクション」で復刻されている。
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幼く渡日した植民地朝鮮の子は差別と偏見の中で絵を描くことを覚え、それを希望とした。労苦と辛酸の中で〈ただ残されていた楽しみとして依然としてかわらない読書と絵画への関心だけを持ち続けた〉少年は、19歳で皇軍に志願した。
〈閉ざされた朝鮮人として甘受しなければならない差別の世界から、欣然これに応じて同化することが多くの同胞の利益につらなり、ひいてはもやもやした劣等感のしこりを思いきり除去することになると思い、呼応しつつあった。〉
強大な大日本帝国の意志は、〈カーキ色の軍服と、拳銃と、行進と、皇室と、集団神社参拝と、ゲートル〉を、朝鮮人青年の日常に、むしろ肉体の一部にまで仕立て上げた。
朝鮮人であることは、ただ哀しい暗い惨めな現実に過ぎず、輝かしい日本人として見返してやるためには兵士になるしかなかったのだ。
たとえ、母親が「この親不孝者、哀号、哀号、おまえはだまされたんじゃ」と哭いて訴えても、無理矢理押し付けられたみじめな幻影は、もう現実に朝鮮人青年を引きずって行った。
朝鮮人の貧困な家に育った18歳の呉林俊は、日本人と対等になる幻想をもって徴兵検査を受けてしまう。
1944年9月下旬、慶尚南道普州に集合するように命令され関釜連絡船に揺られ、釜山に上陸した。そして入営したが、大柄の呉林俊には支給された軍服はどれもつぎはぎだらけのつんつるてんだったし、軍靴も11文半がなく、サイズの小さい11文をとりあえず支給されるという、帝国陸軍のていたらくだった。
満州に移動する前日、朝鮮通の青柳少尉の訓示があった。
このマニピュレータはキムチの味を賞味するに人後に落ちないと言い、朝鮮の風土や習俗への親密を述べ、一時間に渡って、日韓併合が平等で、「半島人」が兵役の義務につくことによって「八紘一宇」精神の顕現化が進むのだと説いた。青柳の演説に朝鮮兵たちは心を震わせた。
〈わたしの内臓は撃たれていた。東亜における勝算なき皇道精神のおこぼれをふりかけられたわたしが、朝鮮通・青柳少尉の熱弁の渦中に引きずりこまれてゆくのはさして困難なことではなかったのだ。〉
満州への移動に自由な空に飛び立つような期待を持ったのは呉林俊ばかりではなかったはずだ。
→(その3)へつづく
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*本文の著作権は、著者(林浩治さん)に、版権はけいこう舎にあります。
*ヘッダー写真:関釜連絡船。下関鉄道桟橋に停泊する景福丸
不明 - 写真絵葉書(投稿者所有)
下関鉄道桟橋に停泊する景福丸(関釜連絡船)。舷側よりも左右に張り出した船橋が姉妹船との識別点である。
パブリック・ドメイン
File:Keifuku Maru at Shimonoseki.jpg
作成: 1922年から1929年までdate QS:P,+1922-00-00T00:00:00Z/8,P580,+1922-00-00T00:00:00Z/9,P582,+1929-00-00T00:00:00Z/9
ウィキペディア「関釜連絡船」より