鞆の浦を目指したら福山の素敵なコンセプトと出会った
旅情豊かな鞆の浦を目指し、福山駅で途中下車をしたら、バラがお迎えしてくれた。
実際には100万本も咲いてはいなかったけれど、至るところでバラを見ることができる。花の中でもバラは、特別な存在感を放って人の心を華やかに彩ってくれるように思う。
福山市には初めて訪れたが、バラによってそれまでに抱いていたイメージががらっと変わった。ただの美しい花のイメージが付随しているのではなく、
町の歩んできた歴史とともにあるもの。人を勇気づけて希望をもたらしたもの。
福山のイメージとともに薔薇のイメージも上がっている。
戦後の焼け野原に咲くバラの花を想像して胸が熱くなり、肝心のお目当てだった鞆の浦観光は、思ったほど感動もせずさらっと戻ってきたのだった。
鞆の浦から、福山市に戻ってきて福山城へ入った。
ここの城主の水野勝成のストーリーがまたよかった。何もないところで灌漑をし塩に強い作物を作り、城を建て町をつくり50代でも戦で勝っている。その後80代まで兜を着続けたらしい。
これには勇気づけられた。まだまだわしもこれからじゃ。
薔薇にしろ、城下町にしろ、なにもないところから興すというストーリーが胸熱なことに気がついた。個人的に好きなのだろう。
歴史を俯瞰してみると、個人の手柄は点でしかない。けれど、全体を動かし全体につながった点というのは、意義のあるものだ。
命あるものは、いつかなくなる儚さの一方で、どんな小さな活動でもどこかにつながりを持ち続けることが想像できると、存在としての安堵感を覚える。
そうやってフォーカスを引いていると、全ての心配や悩みなんてどうでもよくなる。そうして食べた広島のお好み焼きはまた格別だった。