ジミヘンとマイスル<前編> ~1970年の2枚のライブアルバム~
ジミヘンのフィルモア・イーストライブの5時間の全容が明らかに
今から半世紀前、1969年12月31日と1970年1月1日の2日間、ジミ・ヘンドリックスは、新しいバンドによるライブを行う。場所はロックの殿堂と言われたニューヨークのフィルモア・イースト。
ライブの完全版アルバム『ジミ・ヘンドリックス バンド・オブ・ジプシーズ コンプリート・フィモア・イースト』(ソニー、2019)が2019年12月4日に発売になり、2日間4セット計5時間超のライブの全容が明らかになった。
バンド・オブ・ジプシーズと名づけられた新しいバンドは、兵役時代(ジミはパラシュート部隊に所属していた)からの旧知だったビリーコックス(b)と以前からセッションなどに加わっていたバディ・マイルズ(dr)のトリオによる、ジミにとって初めてのメンバー全員が黒人のバンドだ。
ジミ・ヘンドリックスは1966年、アニマルズのベースだったチャス・チャンドラーに見いだされ、1996年にロンドンに渡り、ジミ・ヘンドリックス・エスペリエンスというトリオ(ベースのノエル・レディング、ドラムスのミッチ・ミッチェルとも白人)を結成しロンドンでデビューする。その類まれな才能にエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ビートルズのメンバーらがこぞって称賛の声を上げた。ポール・マッカートニーの推薦により1968年のモンタレー・ポップ・フェスティバルへ出演することになり、故郷アメリカに凱旋する。
ジミのフィモア・イーストのライブをマイルス・デイヴィスが観に来ていた
ジミのこのフィモア・イーストのライブをマイルス・デイヴィスが観に来ていた。マイルスは1月1日のライブを観たと伝えられている。マイルスは驚嘆し、ジミの演奏中に”How the fuck is he doing this?”と何度もつぶやいていたそうだ。
楽屋を訪れたマイルスはマーシャルのアンプを取り寄せてくれるようにジミに頼み、『今度いっしょに何かやろうぜ』と言い残していった、とのバディ・マイルスの証言がある。
ジミとマイルスは1969年に出会って以来、交流を深めていた。ジミはジャズもよく聞きており、マイルスの『カインド・オブ・ブルー』がお気に入りで、マイルスとの共演を熱望していた。ジミはマイルスの自宅を訪れ、二人は師弟のような関係だったそうだ。
このライブの後も、二人の交流は続き、マイルスは6月に完成したジミのNYのスタジオ エレクトリック・レディ・スタジオに頻繁に遊びに行っていた。ある日同行したアイアート・モレイラによると、ジミはマイルスに自分が使っていたワウ・ペダル(ワウワウ)を贈っている。
「とにかくジミは、独学の、偉大な天性のミュージシャンだった。誰からでも、なんでも、しかもすばやく吸収してしまう。テクニック的な話をしていて、『ジミ、ディミニッシュのコードを弾く時には・・・』とか言いだすと、彼はまごついた表情を浮かべる。で『OK、OK、忘れてたよ』と言いながらピアノかトランペットで演奏してやると、誰よりもすばやく理解してしまうんだ。あんな奴は、いない。彼は音楽を聴くためにの天性の耳を持っていた。だから、いろいろな異なったやりかたを示してやったり、オレやトレーンのレコードをかけて、何をやっているかを説明してやった。そのうち彼は、オレが教えたことを自分のレコードで生かしはじめた。すばらしかったな。彼はオレに影響を与え、オレも彼に影響を与えた。それこそすばらしい音楽が作られる関係なんだ。教え、教えられながら、もっとずっと先に進んでいくんだ」(『マイルス・デイビス自叙伝Ⅱ』)
マイスルはジミのどこに惹かれたのか
ジミはマイルスを尊敬し、マイルスはジミの才能を称賛し、お互いに影響を及ぼしあった。
マイスルはジミの、もっと言えばバンド・オブ・ジプシーにおけるジミの、どこに惹かれたのか。
マイルスが実際に観たフィモア・イーストのライブの完全版を聞き込んでみた。
ジミヘンといえば、マーシャルの巨大アンプを使い、フィードバックを巧みに操った爆音サウンド、ファズ、ワウワウ、オクタヴィア、ユニ・ヴァイヴといった当時最新のエフェクターを駆使した激しい歪みと揺れ、そしてギターを背中や股下に構えて弾く、歯で弾く、ギターを燃やすなどの派手なステージアクションがトレードマークだ。
そうした派手な「意匠」によって見えにくくなっているが、リズムとメロディーの境目がない歌うようなソロ、そんなギターとヴォーカルとが等価で相互に応答しながら展開する演奏、微妙なタメやノメリやツッコミなどを伴った身体に訴えかけてくる強いグルーブ感がジミの真骨頂だ。今もって余人の追従を許さないジミだけの才能だ。
実際にジミが演奏する姿、リズムや音の流れに自然に反応するそのしなやかな身体の動きを見ていると、そうした並外れた才能が天性のものであることが直感できる。
「マシン・ガン」。マイルスをしてこんな音楽がやりたいと言わしめた曲。
マイルスをしてこんな音楽がやりたいと言わしめたのが、このライブで披露された「マシン・ガン」という曲だ。
「今無力感を感じてしまう出来事に捧げたいと思う。シカゴで、ミルウォ-キーで、ニューヨークで戦っている兵士たちに、・・・ああそれから、ベトナムにいる兵士たちにも」とジミが前置きして「マシン・ガン」は始まる。時代はベトナム戦争真っ只中だ。
タタタタタッ。機銃掃射の連続発射音を思わせるスネアドラムが鳴り響く。
繰り返されるトローンとしたベースパターンは、非人間的な兵器が醸し出す戦場の異様な雰囲気、じっとりしたジャングルの空気、忍び寄る死の影を訴えかける。
爆撃機の発する轟音、爆弾が落下する風切り音、戦車のエンジンの唸り、マシンガンの連射音、逃げ惑う人々の叫び声、喘ぎ声、金切り声、すすり泣き、夜のジャングルに潜む動物たちの鳴き声など、ジミのギターは戦場の夜をこれでもかと描き出す。
「悲劇、忘我、運命」マーク・ロスコ
マーク・ロスコが自らの芸術について述べた言葉が思い出される。
「自己表現は退屈だ」、「悲劇、忘我、運命といった人間の基本的な感情を表現することだけに関心がある」
和声も調性も旋律もリズムも、予定調和はことごとく無化され、即興性のなかで、恐怖、苦痛、悲嘆、虚無といった禍々しい戦場の空間が目の前に立ち現れてくる。
爆音はナイーブなメロディを内包し、邪悪な歪みと無垢なトーンが共存し、天使にして悪魔、美にして醜、ロックでもファンクでもブルースでもあり、同時に、もはやロックでもファンクでもブルースでもない、さらには黒でも白でもない、「マンシン・ガン」はそんな領域に達している。
そうした離れ業を自然体かつファッショナブルにやってのけるジミ・ヘンドリックスの天才性。
黒人であることに軸足を置きながら、その天性の能力ゆえにその黒人性を自ずと超越し、音楽の至高の領域としか言いようのないところまで飛翔してしまう才能。
プリンス・オブ・ダークネスと呼ばれたクール帝国の帝王マイルスが惹かれたのは、そうしたジミのクールさだ。
クールとは、既存の体系や価値観を軽々と越境して平然としている優雅さのことだ。
マイルスは、ジミにクールさの新たな理想像とそのロールモデルを見出した。
マイルスはこのライブを聞いた後、急速に変貌していく。1970年、マイル
のジミヘン化(菊池成孔)が始まる。
*参考文献:
文藝別冊『ジミ・ヘンドリックス伝説』(河出書房新社、2018)
マイルス・デイビス、クインシー・トループ著『マイルス・デイビス自叙伝Ⅰ、Ⅱ』(中山康樹訳、宝島社、1990)
中山康樹著『マイルス・デイヴィスとジミ・ヘンドリックス』(イースト・プレス、2014)
菊池成孔、大谷能生著『M/D』(エスカイア マガジン ジャパン、2008)
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