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「雨に唄えば」にみる過去への眼差し

4月、関西は少し雨続きでそれによって桜も散っていき、短いスパンで季節の変化を感じられる時期だなーと思います。

話は変わりますが、コロナ禍になってから映画の鑑賞量が増え、Filmarksのレビューも160本を超え、思えばこの3年で沢山観てきたなと思います。
最近は金曜の夜に映画を観る習慣がつき始めました。
昔なら大体飲みに行ってたのに、大きな変化です。笑

昨日は雨が降っていたので、丁度いいかなと思い、「雨に唄えば」を鑑賞しました。

観終わった後のこのジャケ、味わいがまた変わる。


「雨に唄えばって、雨の日もみんなで唄えば楽しいなみたいな映画でしょ。」という位、粗い感じでこの映画を認識していました。(猛省!)

全然、雨の映画じゃなかった!
いや、ドンが歌うシーンは名シーンなんだけど。

本作を鑑賞してみて、こういった1950年代の名作として語り継がれる作品て味わい深いなーと思いました。
雨に唄えばは1953年、七人の侍が1954年と、太平洋戦争が終わり、表現への挑戦や新たな時代を迎えるエネルギーを作品からビシビシ感じます。

2023年現在、映像表現もCGと現実の境目がわからないほどに技術が進歩し、新たなフェーズに入っていることも感じますが、この「雨に唄えば」の今観ても新鮮さを感じることに、なんて作品として強度が高いんだと心底思いました。

また、もっとクラシカルな落ち着いた作品なのかなと思いきや、結構実験的な映像表現も途中で出てきて挑戦的な側面もあり、多面的でもありました。

このシーン、サイコ味すら感じた。

本作を観たことで、デイミアン・チャゼル監督がララランドやバビロンで表現した過去の映画への賛辞、特に「この雨に唄えば」に対するリスペクトがあることも感じました。

バビロンを観る前に雨に唄えば観ておけば良かった。

もう一度、ララランドやバビロンを見直せば違う感じ方をするかもしれないと思った。

後、「役者として大衆に見られている私」と「普段の私」という2レイヤーで描くことをすでに1953年でやっていて、自分の1950年代に対する時代認識が古く設定され過ぎていて、すでにこの時代には映画内でレイヤー構造的表現がすでに行われていたんだと、勝手に低く見積もっててすみませんと思った。(映画は設定自体は1920年代とのこと。)

最近、読んだ外山滋比古さんの「読み」の整理学という本に書いてあった一節を思い出しました。

“昔のことは古い。だからと言って古臭いとは限らない。新しいことはおもしろそうだが、時の試練をくぐり抜けていない。
新しい物事は古くなるが、古いものはもう古くならない。“

「読み」の整理学より

なんだかこの一節、今の自分にとても刺さる。(この本についてもまたどこかで思いを書きたい!)

時の試練を潜り抜けた作品というのは、時代がその時から遠ざかれば遠ざかるほど魅力は増し、その作品が持つそもそもの価値に新たな付加価値として、「時代」というものが加わり味わい深さを増していくんだなと感じています。

近頃は新しくなる速さも尋常ではないのに、もう一方で過去から学ぶ速さも同時に増していってるんじゃないかと。
忙しいわ現代人。。

雨に唄えばを観て、名作と呼ばれている作品にはこれからも触れていきたいと改めて感じさせてくれる鑑賞体験でした。

雨が降ってくれてとてもいい機会をもらいました。

おわり

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