見出し画像

徳ポイントを貯めている

徳ポイントとは

ちょっと面倒な事や、人のためになる事をした時に私の脳内で勝手に貯まった事になっているポイントである。タイ仏教では徳を積むとより良い来世が迎えられるという考えがあるらしいが、私のは別にスピリチュアルな話ではない。

例えばスーパーで出しっぱなしになっているカートを置き場に戻しておく。駅で落とし物をした人を追いかけて渡す。公園のゴミを自分のゴミのついでにいくつか拾う。

そうした行動にはぶっちゃけ自分に何の利益もない。下手をすると落とし物を拾ってあげた人にネコババを疑われたり、ゴミから蟻が出てきて家で歩き回ったり、損をすることすらある。お天道様は見てるというが、半端な善性を発揮しても見返りがないどころかリスクがあるのが実際のところだ。

そこでとりあえず私は「今、徳ポイントが貯まった」と思う事にしているのだ。誰かに感謝してもらえなかろうが、ちょっとくらい損をしようが、自分が善性を発揮し滅私奉公(めちゃくちゃ規模が小さくても!)をすると自分の中でポイントが貯まるのだ。それとは別に相手の感謝や見ていた人の賛辞という心理的報酬が入る場合もあるが、これは完全に臨時ボーナスであり、初めから見返りとして見込んではならない。

貯まった徳ポイントをどうするのか

来世に期待していないなら徳ポイントなど貯めて何とするのか。誰も自分の小さな善行など知らず、日々の鍛錬のように「あなたの努力を見ている人は必ずいるよ」的な性質のものでもない。

でも単純にさ、気分が良いよ。
善性を発揮できている方がさ。
自分を信用してもいいと思える。

また、心を守る緩衝材にもなってくれる。自身が他人に迷惑をかけたり、やらかしてしまったりした時に、貯まった徳ポイントを消費して精算したりしている。無論迷惑をかけた相手には別途謝罪をする。あくまで自身の心の負担を取り除こうという話である。

例えば手に持っていたビニール袋が風で回収不可能な所に飛ばされる。意図せずポイ捨てをしてしまった形だ。だが前日に公園に落ちていた自分のではない缶をゴミ箱まで運んで徳ポイントをゲットしていたのでチャラという事にする。

誰に説明するわけでもない、完全に頭の中だけの清算システムである。

わざわざそんな事を考えなくても、善人は人助けを息をするようにするし、悪行を気にしない人は自身の行いに気付きすらしない。善人と言えるほど善性が強くなく、やらかしを気にせずいられる程悪人でもない、ごちゃごちゃ考えがちな私にはこの考え方が合っている。それだけだ。

「やらぬ善よりやる偽善」

だからね。

いいなと思ったら応援しよう!