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知らない方がよかった【怪談】

余談から始まりますが、私は「怪談」がけっこー好きでよくYouTubeなんかで聞くことがあります。

いいわけではないですが、怖いもの見たさといったものではなく、そこには人間の情念(ときに怨念)がっているからです。
悲しさや切なさ、悔しさなどに混じって、やさしいぬくもりが凝縮されていたりするからです。

私はほとんどのお話しに怖いと思ったことはないんですが、怪談のそうしたところに魅力を感じるんですね。

話によれば、この分野(業界)も魑魅魍魎、人間関係のどろどろといった”本物”の妖怪らがうごめく世界らしく、なかなかです。

そんななかで、7年位前からひそかに支持している怪談師にファンキー・中村さんがおります。実に情景描写というか、ディテールを語らせたらピカ一の話し手です。
金の星社からご自身の手になる子供向け怪談本も出ているそうで、今や有名な怪談師の一人なんでしょう。

そのファンキーさんのお話しとしては、雑片に入るものでしょうが、たしか「怪談になる日」という一編があります(この件、タイトル、お話しちょっと違ってるかもしれませんがごめんなさいね)。

ファンキーさんが札幌のクラブでDJをしていた時の話。
そのクラブに頻繁に顔を見せていた男がいた。
彼は、サーファーだったんでしょうか、当時はやっていたムスクのコロンでも、わざわざ湘南・辻堂にあったライトニングボルト製(=私もさる縁がありました💦)のものを使用するなどで、まあ”とれんでぃー”なイケてる男だったんですねえ。

その彼が、ピタリと店に顔を出さなくなった。

しばらくして、ある夜ファンキーさんが小雪舞う大通りを歩いていると、向こうからそれらしき人が歩いてくる。
彼だった。
すれ違いざま、軽く挨拶をして二人は別れた。

との話を、仕事仲間のミーティングの際に同僚に話す。
一同水を打ったようになる。
中には泣き出す子も。
ご想像通り、彼はすでに亡くなっていた。

つまり、ファンキーさんが男と会った。
それを、ファンキーさん自身でとどめていて、他言しなければ、ファンキーさんの中では、彼は「生きている」ということで終わっていた話。
ところが、亡くなった事実を知らされた時、その瞬間からそれは「怪談」として成り立ってしまうというお話しでした。

ファンキーさんは、この話に加えて、「あなたは幽霊を信じますか? 信じない方は、渋谷のスクランブル交差点にいる群衆が果たしてみんな生きている人なのか、確信を持って言えますか?」と、畳み込んでくる。

さて、ここではたった1人の男で、怪談が誕生したわけですが、それがもっと多く、、、と書いていて怖くなってきた。
たとえば、ですよ、あなた以外全員がみな異界の人だとしたら、、、
いや、ここまでですとピンと来ないでしょう。

では、それを教えてくれる人は?

1人もいません。💦

都会での出会いは・・・

知ることには勇気がいる

アレ?
やらかしてますか?
またして。

話終わってんじゃない?
前ぶりだけで終わってます?
イヤーだわー。


いえいえ、もちろん話はここからなんです。
あなたには、

「知らない方がよかった」

と思えることがありませんか?
それは、果たしてそうなんでしょうか?

知りたい→知った→やっぱり知らない方がよかった→ホントにそうなのか?
いや、もちろん知りたいというきっかけがなくても、半ば不可抗力的に「知ってしまった」というケースも多いでしょう。

いずれにせよ、「知る」という行為には勇気がいるのだ。

そういう話。


「僕って今の両親の子じゃないんだ」

私は、若いころに職場のある同僚から、何かの話の流れで突然告られたことを思い出します。

「僕ってさ、両親が実は生みの親でなくってさ、中学の時にそれを知らされたんだ」

と、聞かされた私も、

「ふーん、そうなんだあ」

と務めて軽く流すしかなかった記憶があります。

しかしながら、そんなエピソードを覚えているくらいですから、私としても、それはショックなことだったに違いないわけです。

同僚の気持ちもそうですが、物心ついてその事実を”息子”に話さなければならない(育ての)親の気持ち。

先ほどのファンキーさんのお話しではないですが、
少なくとも中学に上がって”親”からその話を聞くまでは、彼にとってその親は実の親だったわけですから・・・。

まあ、その後むしろ本当の親である以上に孝行しているだろうことを願うが、この場合彼は「知りたくない事実」を「知った」ことが断然よかったことになったと思いたい。

今思うと、彼は性格が明るいなかになんとなく寂しさを感じさせる奴だったが。


それを知ってしまったばかりに・・・

さて、では「知ってしまったばっかり」が生死を分けるトリガーとなりうる場合はどうだろう?

知りたいと思わなくてもそれを知って(目撃して)しまったばっかりに、やばい事態に見舞われる、という展開は、サスペンスによく使われる導入イントロですね。

たとえば、ある男が人気のない山中に行きつく。
と、ふと何か重いものを引きずるような音が耳に入る。
次第にその音が近づいてくる。
気配をひそめて、藪の中からその音のする方を覗く。
闇夜の視界に入ったものは、
巨漢の男が何やら大きな袋状なものを地面に引きずって歩く姿だった。
やがて、男はスコップで穴を掘り始める。
埋める。
固唾を呑みながら一部始終を見ていた男は、うっかり「ㇶェ」とか小声をあげてしまう。

ここから、始まっちゃうんですね。
ストーリーが。

ドラマの展開は、作者の意向によりけりですが、たとえばその男がその(ただ目撃してしまった)一事で災難にあったり消されたりしたとしたら、それはもう、まごうことなく「知らない方がよかった」お話しです。

おそらく、世間には、あるいはそれがさる組織の慣例であって、すでに何人もの人間が同じ運命に、という真相も明るみに出ないまま、丸ごと闇に葬られるだけです。

もちろん、それがプラス的な展開であれば、主人公の男は一躍その犯罪を暴き出した時の人になったりもするわけです。

紙一重ですね?

ヒッチコックの有名な「裏窓」にしても、そんな現場を目撃したことからストーリーが展開しますね?

いや、残念ながら、それはそうしたフィクションの世界だけではなく、現実の事件や、怖いのは未解決事件にも多くあることです。


われわれの秘密を暴こうとすると

ほかにもサスペンス映画やドラマ、小説の世界では、「知ってはならないものを知ってしまった」恐怖が、物語の重要な骨子であったりする場合が多いですね。

そこには、「我々の秘密を暴こうとするとこうなるぞ」という、どこか闇の勢力の脅しのメッセージ性なるものがあるような気がするのは私だけでしょうか?

いやいや、さらに裏がある?

というのも、人というものはそう言われれば言われるほど、真相を知りたくなるものですからね。

となると、

「いいぞ、どんどん暴け。そこは私たちの居場所じゃないからね。暴け、どんどん暴いて犯人を捕まえてごらん」

というスケープゴートであることも考えられるではないか?

↑で書いたように。
つまり、トド(=黒幕・頂点の隠語として勝手に認定)隠しですね。


これもFAKE、あれもFAKEの虚々実々

陰謀論者の間では有名な面白いエピソードがあります。

かつて故・エリザベス女王(2世)と謁見したプーチン氏。
彼の見ている前で、女王は見る見る2、3メートルもあるかと思えるレプティリアン(爬虫類人)にシェープシフトして見せたという。

ハハハハハと冗談も休み休み、のお話し。

しかし、女王は、あなたがこのことをしゃべってもだれも信じる人はいないのよ、と言ったとか言わなかったとか・・・。

因みに、プーチン氏は女王の葬儀に参列していない。
(このエピソードはともかく、プーチン氏はレプについてもよく知ってますよ、当然ながら)

このことから敷衍すれば、そう言えば、以前バッキンガム宮殿の外壁を裸の男が命からがら(?)ロープで脱出する”フェイク映像”が出回ったなあ、とあらぬ想像を巡らせたり、カナダ人原住民児童数万人××容疑の逮捕状問題などの”フェイクニュース”から、ダイアナ妃の死の真相が実はその問題に関係していたという”フェイク説”にまで波及せざるを得ないわけですね。

何かとスキャンダルが絶えない英王室
=写真はバッキンガム宮殿

そして、こういう見方もできますね? 
様々なスキャンダルや怪しさで騒がれる英国王室は、実はさほど大きなポジションにはいないんだなあということ。

逆に、静かに目立たず存続しているような「王室」こそが、目をやるところなのかなあ、と。

もちろん、そうしたやんごとなき一族の世界は、我々下々の手の及ぶ世界ではありませんね。

そうしてそこに少しでも肉薄しようとすると、必ず「フェイク」「偽情報」「偽旗」というのぼりが立ちます。
真相究明の矛先が上へ上へと昇っていくほど、まあまあほとんどすべてがこの煙幕でせき込むばかりですね。

いい加減、笑っちゃいませんか?


さて、私はこのような「扇動的?」なお話を云々したいわけではないんです。

あなたは「それでも知りたい派」ですか?
「知らない方がいい派」ですか?
「知らなくてもいい派」ですか?
「知りたくない派」ですか?
「それどころではない派」ですか?

それとも、

いずれその時が来たら万人が知ることになるから別にいま慌てて知る必要はない。知ったところでどーなるもんでもないし。のんびり行こか―派」ですか?

後記
お疲れ様でございました。
お読みいただいてありがとうございます。

今をどう生きるか?
もちろん、そこは自由意志の問題ですから、ひとそれぞれ、それがどうあっても、望むところを生きることこそが最善の道だと思います。

人の「知」というものは、
所詮人の「知」
あの西遊記の孫悟空ほどに「知」に長けたものにしても、所詮はお釈迦様の掌に小便を掛ける程度のことしかできませんでしたね。

そうした「絶対知」というものから見れば、なるほど人のそれは、なんとちっぽけなことであるか?
しかし、そうした高い目線で自分を眺めることが出来るのも人でありますが、
人は人。
神様ではありませんね。
少なくともこの肉体は。

そうしてみますと、
つまらない
くだらない
取るに足りない「知」を振り回す悟空は
また愛らしい存在ではないですか?
ときおり、それを人間界の言葉では、

「人間らしい」
「血の通った」
「ぬくもりのある」

とかいう表現をします。
一言で言えば

「お馬鹿である」

ということになります。

逆説的に言うと、神様になってしまわない
というところが重要な気がします。

そんなものが私の信条です。
さふいうものにわたしはなりたい。
(別に信条にしなくてもそうだし、十分なってますが・・・笑💦)





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Monikodo
東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。