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仙人の壺

毒気を抜く人は誰?
と言われると、私は真っ先に南伸坊さんの名前を挙げる。

ご存じない方も多いと思うが、80年代にお茶の間でケッコー人気のあった「日清チキンラーメン」のCM。
そこに登場した「三角(おむす)頭のおじさん」と言えば、思い出す方も多いだろう。

南さんは、装丁作家ですが、多才な方で漫画というかイラストなども独特のとぼけた味わいのあるものを描かれる。

世の中には、俗にいう「頭のいい人」はあまたいるが、この方もそのお一人だと思う。
それが、どうのこうのというよりも、まず「作品」を少しご覧ください。




南伸坊著『仙人の壺』より「柳の人」

という次第。

この「空っぽ感」がたまらなくいい。
起承転結がないところがいい。
解説が不要な点がいい。
異象を見ても喜怒哀楽がないところがいい。
「ただそれだけのお話し」のところがいい。

そこに何かを期待している人は、見事に肩透かしを食らう。

中国の怪談には、奇妙なものが多い。読んだあとにポンとそこらに放っぽらかしにされるような気分です。
私は、この気分がことのほか好きで、そんなものばかり捜して読んできたようです。

南伸坊『仙人の壺』まえがきより

と、ご自身も書いているように、
読了、そこにぽっかりと空間エアポケットができている。

理論や、理屈、価値などにとらわれて生きている(またそうせざるを得ない)現代人には、「くだらない」「何が面白いんだろう?」
となるような漫画だが、
彼一流の装丁作家らしいセンスというか、間や空白の取り方というか、
そんな”見せ方”によって、かえって

「君たちこそ、そこに何かの価値や意味を探そうとしているが、そんなもんは君たちが勝手に描いている幻想だよ」

と、語りかけてくるようだ。


南さんが、「頭のいい人だなあ」と思うのは、そこに死角がないとでもいうのでしょうか、すきだらけでかえってつけ入る隙がないということです。
ちょうど、赤ン坊がそうであるように。
同様に、それは、柔らかくてつかみどころがないようなところを「狙い」にしているからです。

この『仙人の壺』という本は、中国の怪異譚・伝奇16篇の「超短編」を南伸坊さん特有のタッチのイラストで描かれている。
私も、いにしえの中国のそうした世界が好きで、ごく若いころに『列仙伝・神仙伝』などを読んでは、「なんだかなあ」的感慨を持っていました。

ほぼ、「無意味」だからです。
「教訓」はもとより、メッセージも不明。
「だから何?」の世界。
何の足しにも、為にもならんのです😁
仙人はイコール「無意味」なんです。

同著では、その中で南さんがとりわけ好きだという『列仙伝』中の人物、「修羊公しゅうようこう」のエピソードを挙げている。

” 華陰山に修羊公しゅうようこうという仙人がいた。
ある日、道術をもって景帝に用いられたい、との願いがとおり、
帝は、彼を礼遇し、王族のやかたに住まわせた。
しかし、数年経ってもいかなる術もあらわさない。
しびれを切らした使者が
「修羊公には、いつになれば技量をお示しになられるのか」
と、問いざま、
彼はたちまち白い羊の石像になってしまった。
しばらくして、その石像はどこかに消え去ってしまった。 „

これに対する、南さんの「解説」が面白い。

いったいどういうつもりなのか? 自ら、「景帝に用いられたい」と山を下りてきたというのに、数年経っても何もしない。
そうして、ちょっと、
「どうなってるんでしょうか?」と聞いた途端に白い石の羊になってしまう。たしかに、それはそれで、めざましい術ではあります。だが、石の羊に化けたからなんだ? と景帝(漢の孝景皇帝。在位157~141年)は思わなかっただろうか?
よしんば、そのようにしてくれたところで、いったいその「石の彫刻」に化ける術は、何の役にたつというのだろうか?
なんにもならない。この徹頭徹尾に、オトボケなところが、私が魅かれるところなんですが、たしかに仙人でもなければ、こんなくだんないことはできないのが人間です。

『仙人の締切』蛇足Ⅰより

仙人は、術の修行、それを身につけ、磨くことが本願です。
つまり、徹頭徹尾エゴイスティックな独善的な世界。
よって、仙界ではいくら技や術を磨こうが、神界には達することがない。

どこかでそんな説法を聞いたような。
だから、修羊公は景帝に用いられ、その道術で石の羊になったのですから、彼としては「やることやった」のかもしれませんね?


後記

価値がなければいけないんだろうか?
意味がなければならないんだろうか?


とかく、まじめな人ほど、自らの目指すところに向かって山をどんどん登ってゆく。
それ以外のものが視界に入らなくなる。
とりわけ、低いもの、無価値なものを避けようとする。

となると、ややもすると、心、魂がかたくなになってしまう。

目先のものが「外界」に向けての場合、やがて「混沌」と「疑心暗鬼」がやってくるのは当然。
そこでは、あらゆるものがさかさまにひっくり返るし、またひっくり返っていくだろう。

なぜなら、世界が急速な転換期にあるから。

内界が外界を、外界が内界を、
それぞれ規定しあっているのであれば、
その外界を素晴らしいものにするには、内界を変えればよいし、また変えなければならない。

そこで必要になってくるのは、

なにものにもとらわれない精神。
赤ン坊のような自由な気持ち。

すなわち、
頑なさ(囚われ、固着)を拭い去ることでしょう。
(そんなもん、もともと無かったんですから)

素晴らしいことをおっしゃる方がおられます。
それは「真理」かもしれないなあ、と思う方もおられます。

しかし、それが「真理」であったにせよ、それにすら囚われない。

もちろん、(自分の発言も含め)「お馬鹿だなあ」もあります。
しかし、私は切り捨てません。

むしろ、つまらないこと、無意味なことも評価します。
時に、率先してそれを露呈します。

私は、そんなところを狙いにしています。


『仙人の壺』

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Monikodo
東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。