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私たちの比較、選択、決定がこの世界の無秩序を生んでいる
なぜ一切を否定するのか?
とりわけ自己を否定するのか?
こう書きだすと、まるで世界の終焉でも来るかのようですが、さにあらずで大したことはありません。
まず、ここで言う一切(全体)というものからして、実に狭い範囲でのそれでしかないからです。
なぜなら、それはちっぽけな思い込みが描いた一枚の抽象絵画のようなものだからです。
その絵が自己です。
(ここ重要です。通常、自己が様々な絵を描くと思いがちですが、描かれた絵を自己と呼んでいるだけです)
「一切」はすべて「自己」という絵の枠内にあります。
それを縦に置いてみたり横にしてみたり、あなたがいくら自己を探求しても──いやすればするほど、それがいかに奇怪で、とりとめのないものであるかに気づくばかりでしょう。
すなわち、もうそんな頼りないモウセンゴケのようなものに全幅の信頼を置くのを止めましょう、ということで、私たちはすっかりその場を去らなければなりません。
なぜでしょうか?
これまで良かれとしてきたものを疑う
まず、あなたはこの世界が素晴らしく素敵なものであるとお思いですか?
今のままずーっとそうあってほしいとお思いですか?
美しい樹々、息をのむ大自然、山、川、滝、海、新緑、紅葉・・それらがそうあってほしいという一方で、私たちは森林の伐採、河川や海を汚染し、観光地などには平気でゴミを投げ捨てています。
それらすべては私たちの貪欲、快楽の追求、功利主義によるものです。
つまり、私たちは自然を前に、自分に都合の良いロマンチックな絵のみを切り取って、ひとしきりそれに酔いしれたら、あとはもう関係ありませんといった体です。
つまり私たちは「貪欲、快楽の追求、功利主義」という歪んだプリズムを通して世界を見ているわけで、それらはすべて自他の分裂から生じています。
私たちは他者と比較することで、嫉妬したり優越感に浸ったりします。
他者よりもさらに良いものを手にしようと品定めをしたり値踏みをしたりします。
そうした挙句にさてそれで満足するどころか、さらなる上を目指します。
それを、進化とか発展と呼んでいます。
そんな、私たち人間の暮らしぶりはどうでしょう?
数百年、数千年前から変わったでしょうか?
この地上からは戦争の火種は、皮肉にもオリンポスの火のように消えることなく、人々はいがみ合い、ののしりあい、殺し合っています。
私たちは管理され、搾取され、奴隷としての生を生き、またそれをそうと気づかされないように文化や教養といった出来合いのモラリズムによって洗脳されています。意志に反する断片的な強制労働を強いられ、定められたタスクを達成することが「生きがい」「やりがい」だと思い込まされ、生涯その身を貪欲の権化である企業、ひいては国家に捧げ、老後は虚無感と孤独感にさいなまされつつ、あるいは酔生夢死の生を終える。
こうした世界観、モノの見方は何か偏っていますか?
悲観論でしょうか?
シニカルに過ぎますか?
そうかもしれません。
「そんな面に深入りせず、もっと前向きにとらえ、人生を夢と希望にあふれるものにするのが私たちの役目だ」
「なるほどそうしたネガティブな側面もあるだろうが、人間はそうした外圧と戦い、学び、乗り越えていくことで立派な人格が形成されるものだ」
・・でしょうから。
そんな”ポジティブシンキング”は聞き飽きたとはいえ、いろいろな見方考え方があっていいのです。
ただ、こうも言えます。
仮に、あなたの”世界”が、すべて順風満帆で、日々楽しく、愛にあふれ、家族や他人ともペットとも自然とも調和がとれたものであったとしましょう。
そんなあなたであれば、このようなネガティブな世界観は去来しないことでしょう。
しかし、多くのそうでないものたちはどうなるのでしょうか?
貧しくて他人のものを盗むしか生きる術のない子供たち、
戦禍の瓦礫を茫然と走り回る子供たち・・。
何も私はみじめな人々を例にとって、私たちの平安や逸楽に影を投げかけようというのではありません。
ただただ現実をありのままに見れば、この世界はもはや絶望的なところまで来ています。
富裕層、貧困層、一般庶民に限らず、一様にその内面のどうしようもない虚無感は、もはや埋めようのないものになっています。
それは論を俟ちません。それだけのことです。
その絶望の前で、これまで行ってきたような人類の(真摯な、または欺瞞に満ちた)あらゆる対策、施策は全く無効です。
なぜなら、それはあらゆる手立てを尽くした結果の絶望だからです。
人類は、すでに何千年もの間、その自らが招いた暗闇の中で真っ当な生き方を模索してきました。
しかし、当然それは堂々巡りで、同じことの繰り返しでしかありません。
いま「○○をすべきだ」というその意見すら、過去に散々試されたことの焼きなましではないでしょうか?
ついに出口が見えないままです。
私たちはいったいどこでボタンを掛け違えてしっまったのでしょうか?
こうした一切合切、良いことも悪いことも、長所も短所も含めて私たちは一度リセットしなおさないことには、もう先がないのではないか?
どーも、そのように私には思えてしようがないのです。
さて、悪いことについてはもはや人類はエキスパートです。
戦争や殺人、盗みや裏切りが「悪い」ことは幼い子供ですら知りつくしていることで、これまで途方もない数の議論を巻き起こしてきました。
(それでいて、不思議なことにそれらは無くならないどころか激化、複雑化しています)
そこで注意しなくてはならないのは、これまで私たちが(気づかずに)良かれとしてきたことです。
そこにも疑いを持たなくてはなりません。
別な言い方をすれば、当然のこととして鵜呑みにしてきたこと、看過してきたことにこそ光を当てなければならないのではないでしょうか?
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そうなりますと、そこには静かな革命が生じます。
にこやかに行儀よく団欒を楽しんでいる最中、いきなりちゃぶ台返しをするようなものだからです。
「ここにいては危険だ、逃げろ」と。
当然、それは意味不明だし、理解不能の椿事にしか映りません。
それらはすべて外部の問題(よそ事)である
そこでまず私はハタと気づくことがあります。
それは、私たちはこれまで自らの内面に分け入ったことが無いということです。
もちろん、異論はあるでしょう。
なるほど「内面」とは、よく使われる言葉ですが、はたしてどなたがその「内面」を探査したのでしょうか?
私たちは、私たちの内面が反応し、感受し、意見を持ち、それを精査し、過去の経験や伝統的な慣習などと照らし合わせ、正解を見つけようとしたり、またそれを導き出そうとしたりします。
正解や正義といった衣をまとった結論を導き出したいのです。
しかも、より広く受け入れられるそれをです。
もっと言えば、そうした虎の威を借りて白黒をつけたいのです。
ですから、その追求や探査は一種のファッショ的な横暴さを帯び、時にファナティックな、あえて言えば魔女狩り的な狂気すらをももたらします。
(「権威」と同様に「世論」という不文律がそうです。それを笠に着たときに、人はいかに横暴であるかは昨今の世情を見るとお判りでしょう)
ほぼすべてがそうした流れです。
たとえそれが内面への探査だと思ったにせよ、それは外面です。
なぜなら、そこに「自己」「私」というものがあり、いつもそこを起点にしてスタートしているからです。
先に書いたように、まず初めに自己の内面が「反応」します。反応した段階で、それがすでに「外面」であることは言うまでもありません。
(お分かりでしょうか?)
そこから先は、自己の思考、すなわち一つの大きな偏見です。
そういうわけで、私たちが「自己」「私」と呼んでいるものと訣別しない限り、内面へ分け入ることは物理的にも困難な話です。
それはこういうことかもしれません。
ここにおびただしい数の樹木を擁する森林があります。
私たちは、これまでその樹々を伐採したり、剪定したり、傷をケアしたりと様々な手を加えてきました。
しかし、その根の部分には一切関知しない、というよりも見て見ぬふりをしてきたようなものです。
その「内面」(根)がなければ「外面」(枝、幹、果実)は存在しないし、両者は一体で切り離せないものです。
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私とは何ですか?
さて、退却しなければならない「私」とは何でしょう?
その要因が、次の二つの理由に基づくものであれば、そうしなければならないと思いますが、それ以外の理由であれば、それは単に同一平面上をスライドしたにすぎず、無意味です。
1)この世界には元来「私」というものはなく、それを持ち出したことが一切の分裂の端緒になった。
2)「私」というものは、過去から脈々と続いている個々の関係性が築き上げたものであり、実体がない。それは常に流動的で、今も世界に向けてシナプスのように触手を伸ばしている。そのようなものを基底にしたこと、つまり「私が在る」というエゴイズムが、あらゆる災禍の要因になっている。
このことは、私たちが何かを認識したり、行動しようとしたりする手前のことで、多くが見逃していることのように思えます。
たとえ精神分析学といえども、それは「私」をむしろ執拗に掘り下げようとするわけで、そうした動機がある以上、それが扱っているのは外面に過ぎません。
ここで、「外面」「内面」という言葉を展開したわけですが、実はそんなものはないのでは、というのが本当のところです。
それを分類しているのは「自己」「私」という障害物であり、そこから外面、内面といった概念が生じます。
で、それが分かるには、その自己を取っ払った時だけであり、自己を否定することこそが、実は内面をのぞくということに思えるのです。
それでは、問いを元に戻しましょう。
この気が狂い、腐敗し切った世界をつくりだしたその元凶はどこにありますか? それがほぼ膠着状態であるのみならず、より悪化していっているその真因です。
政治ですか?
寡頭勢力による世界支配ですか?
どこかの大国のせいですか?
隣国のせいですか?
財務省のせいですか?
総務省のせいですか?
デジタル庁のせいですか?
つまり、それは外面(世界・社会・環境)にありますか?
いえ、すべて違うか、問題のすり替えです。
なぜならばそこにあなたは不在だからです。
問題は私たちそのものではないでしょうか?
外部の問題は私たち一人一人の内部の反映だからです。
「○○のせい」
──私たちは、そうした責任転嫁をこれまで(今でも)散々やってきました。ほとんどの方が無意識にそうしています。
何かのせいにすることで、自らはその場を逃げます。
本来であれば、何ごとかゆゆしき事案があったならば、むしろ私たち自身が恥じ入らなければならないはずです。
しかし、自身を不問に付し、それでいて、そのターゲットを「潰せ!」とか「木っ端みじんにせよ!」とかの雄たけびを上げます。
そこには、暗黙の裡に「私は正しい」「私は正義である」「私が裁量を持っている」という心理があります。
しかしあなたはそこで逃げています。
逃げ去ったあとの世界には誰もいません。
空白、エアポケットがそこに在るだけですから、当然問題はそのままになったきりではないでしょうか?
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私とは世界です。
実は私とは、ここで言う「内面」であり、世界とは「外面」を言います。
当然物事には内外面があります。
だから、論理的にも私は世界です。
世界は私をつくり、私は世界に影響を与えています。
お気づきのように、これまで人類はその「内面」を抜きにして「外面」のみに拘泥してきたのではありませんか?
「世界」のみを云々してきたわけです。
先に書いたように、「私」が「私の考え」として登場するとき、それはもう外側の世界に露出しているものであって、決して内面世界ではありません。
世界から逃げ去っている「私」。
「私」抜きのむくろのような世界が、荒廃し、衰退してゆくのは自然な流れなのではないでしょうか?
変えるのではなく変わる
何とかしなくては、と思う必要はありません。
なぜなら、なんとかした結果が今だからです。
すでにそれは過去であり、終わったことです。
変えようとしてはいけません。
なぜなら、変わらないからです。
というのも、変えようとする行為には、すでに自他(自分と他人・世界・あるいは人類)の分裂があるからです。
言い方を変えれば、内面と外面の分裂がそこに在ります。
変わればいいのです。
これまで折に触れて私が「他人はどーでもいい」と発言してきたのは、自他が無いからです。
他人は自分です。
だから自分が変わればいいのです。
ちゃっかりと自分だけが変わっちゃえばいいのです。
後は何もする必要はありません。
ノンプロブレムです。
では、何をどう変わればいいのでしょうか?
少なくともそこに動機があってはすべて灰燼に帰します。
つまりあなたを突き動かす何らかの衝動、刺激、改変への欲求などがそこにあるとき、あなたはただそのために動きます。
そうした欲求・目的は、あなた自身の思考が築いたもので、実際には存在しません。
川が滔々と流れています。
そこに何かのはずみで大きな岩が転がり込みました。
さあ、それまでの川の流れは大きく変化しました。
澱みができたり、急流ができたり、氾濫したり、蛇行したりしながら、そうしてその様相は変化を余儀なくされてしまいました。
これは異常なことです。
どうすればいいのか?
無論、岩を取り除くことが自然に戻す行為です。
その意味で、私たちの人生という川を見直してみましょう。
人生は、その始めから「選択」という判断基準で進行していきます。
AとB、もしくはそこにC、D、E、F・・・といくつかの選択肢があり、私たちはその中でいずれかを決定することになります。
たとえ、それをあみだくじ的な偶然性にゆだねたとしても、そのように決定(選択)した自己がいます。
人生の様々な局面で私たちは当然のごとくそのようにしてきました。
進学や就職、伴侶の選定、友人との付き合い、マイホームの立地、土地、建物の構造、外内装、家具調度といったトピック以外にも、それこそ預金先の金融機関をメガバンクにするか信金にするか、ご飯にするかパンにするか、ビールの銘柄はキリンかアサヒ、はたまたサッポロかや、カレーはSBかハウスかや、パンツはグンゼかB,V.Dかに至るまでです。
いやいや、死後ですら葬儀の花の数や棺桶や戒名のグレードまで微に入り細を穿つといった体で、ことごとく選択しています。
こちらにその気が無くても、業者は「松、竹、梅のいかがにされますか?」と聞いてきます。
そのわずかな差や、時間の流れによって、悲喜こもごもな人生が形成されているといっても過言ではないのです。
「あのときアイツと出会ってなけりゃ、こんなことにならなかったのに」とか、「あのとき、彼と出会ってなければ、いまごろあたしどんなことになっていたんだろう」とか・・。
さて、選択とは当然比較のなかでの判断ですから、それは相対的なものであり、常に揺らいでいます。
それはすべて「より自分の好みに合っている」「より得だろう」「より便利だ」「より安定している」「より価値がある」などといった様に常に比較級であって、決して絶対的なものではありえません。
つまり私たちの言う「結論」とはかりそめのものなのです。
ゆえに、それ自体、葛藤がつきものです。
つまり、選択によって組み立てられてきた人生というものは、イコール葛藤である、とも言えます。
しかも選択とは、それ自体、極めてエゴイスティックな行為です。
というのは、全体の中でAを選択するということは、イコールA以外をそれ以下に見るか、等閑視するか、無視することにほかならないからです。
美しい蓮の花は淀んだ池と泥土が無くては開かない。
いや、淀んだ池と泥土の化け物が美しく清楚な蓮の花だ。
美しい蓮の花だけをチョイスし、それを愛で、しかしその土壌を嫌うのであれば、それは死んだものを手にすることだ。
Aを選ぶということは、それ以外も同様に尊重し、愛さなくてはならない。
いや、ならないのではなくそれが道理ではないでしょうか?
自らの貪欲から逃げずに全体を見つめる
比較、選択、選別、抽出・・・
これらが、もし自然なことで、さらに自然な成り行きであるのであれば、それに抵抗したり否定することは決して出来ないし無駄なことでしょう。
しかし、この長きにわたって伝統的に行ってきた人類の慣習というものが、どこか不自然で軌道を外れたものであったとしたらどうでしょうか?
社会の歪みや狂乱、腐敗といったものは、エントロピー増大の法則よろしく、自然に生じ、そのような運命をたどるのでしょうか?
恒星や惑星が、ある一定の規律を保ちつつ、互いにぶつかることなく旋回し、運動しているように、あらゆるものには秩序があるように見えます。
私たちの身体も秩序です。
それらは、一方を優遇し、他方を排斥するようなことはないはずです。
私たちが、不断に緊張したりリラックスしたりする際に働く交感神経、副交感神経にしても、双方があって初めて一方の動作が可能です。
それでは、一切の選択肢のない選択、または決定というものはないのでしょうか?
または、その選択に個人的な作為がなく、よって何の後ろめたさも、悪びれることもない清々しい性質のものはないのでしょうか?
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自他を区別してはいけない
他人と比較してはいけない
選択という行為は比較から生まれているから良くない
もっとより上を目指すことは貪欲がそうさせているのだから良くない
上記がなるほどそうであるとして、そのように抗うということは、すでにさらなるジレンマに陥っている証です。
そのなかで私たちは身動きができません。
さあ、私たちはさらに一歩進みましょう。
あなたが、もしそのような事実を深く受け止められるとすれば、あなたは生の全体を見ています。
あなたは、その貪欲さ、それゆえの葛藤を見ています。
あなた自身が、これまで目を背けてきた生のもう一幕を開け放ちました。
そうあることで、貪欲さも葛藤もなく、あなたがただ在るのではないでしょうか?
いいなと思ったら応援しよう!
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