【立ち入り禁止】硫黄島に行ってきた
といっても、観光ではない。
ご存じのように、立ち入り禁止の島だ。
行きたくても行けない島だ。
だから、どうしても行きたい向きは(わざわざ薄給覚悟で)島で唯一の食堂の従業員を買って出てまでしておもむく島だ。
今年の一月。
約一週間にわたり、仕事のご縁で、この島に滞在することができた。
いささか旧聞になってしまうが、私はこの島について紀行文を書く気になれなかった。
というよりも、この島がそれを拒絶する。
だから、あくまでも寸感を記すのにとどめたい。
NHKの天気予報では、日本列島の地図の右下に、/ でくくって「小笠原」と表示される。その小笠原諸島の南端にある島。
それが硫黄島だ。
〒 100-2100 東京都小笠原村硫黄島。
住民なし。
ほぼ全てが自衛隊関係者の駐留で占められる。
その他は、時折入島する米軍兵士、慰霊の遺族・ボランティア、島唯一の食堂従業員と、地質その他の調査員が訪れる程度。
通年摂氏20~29度前後の温暖な気候。
埼玉県狭山市の航空自衛隊入間基地から
ご覧のような輸送機に揺られること約3時間。
硫黄島航空基地に到着。
同じ太平洋の島でも、昔に行ったハワイの観光・お気楽ムードとは真逆。
また、グアム、サイパンとは似てはいるもののやはり異質だ。
観光で行ったものの、特にサイパンにはどことなく物悲しい雰囲気が漂っていたのは、ところどころに残された「戦禍の跡」のせいだろう。
しかし、ここ硫黄島は島そのものが戦跡だ。なにせここで、この狭い島で、日本兵約2万人、米兵約7千人が死んだのだ。
海洋性亜熱帯気候のせいで、ハワイのようなカラッとした空気はない。そこもサイパンに似ている。
基地の傍にある宿泊所は、元米軍の兵士たちが居留していた施設らしく、もったいないほど広々していて今どきのビジホとは雲泥の差がある。
ある仕事仲間は、数年前にもここに宿泊したのだが、夜な夜な周囲を歩き回る日本兵の軍靴の音と、枕元に立つ亡霊に悩まされたと語っていた。
この手の話に不信感を持つ方も多いだろうが、この島にいると「そうなんだろうなあ」と、自然に感じさせられてしまう何かがある。
他の方からも異口同音に「ちょっと前まではそうだった」と同じような話を聞くところによれば、やはりまつろわぬ英霊たちが先ごろまでにはおられたのだろう。
幸いこのたびは、そうした事象はなく、一行は平穏に眠れたが、それも長らく慰霊に携われた方々の祈りのおかげと本当に感謝したい。
島では、朝、昼、夕刻の三度の飯は、冒頭で述べた唯一の食堂で摂る。
時間を逃すと、食いっぱぐれてしまう。
前述した宿泊所のすぐそばにその「硫黄島食堂」があるのだ。
近くに「吉牛」はおろかコンビニもない。
居酒屋があるわけがない。外食できる店がそもそもない。
そうなると、人間その「食堂」が生活の基盤になる。
仕事の割り振りも、その「食堂」の決められた時間帯が軸になる。
メニューは、ご飯に、お菜、デザートなど、三四品ついたか。
定食としては満足できる食事だった。
ある方が、「時折来る米兵たちの食事はまた別。連中は千円以上もするステーキにガロンのコーラ、一方日本人は、ニ三百円の焼き魚を食べ、その骨をしゃぶりながら粗茶を啜っている。しかもその経費は全部日本国が払ってるんだから」と語っていた。
アメリカ合衆国(戦勝国)と、日本(敗戦国)
その峻別。格差。
いまさらながら、この両者の過酷なまでの対比というものが、両国のぶつかり合ったこの地に集約されているように思えた。
それは、内地にいてはなかなか見えてこない。
米軍の払い下げ? の宿泊施設にしても、古いとはいえ、まるで座間かどこかの米軍ハウスか? と見まごうばかりだし、島に建てられた米軍と日本軍の慰霊碑は、両国の財力と権力の格差を見せつけるようだ。
栗林中将率いる日本軍。
「日本軍恐るべし」
と全世界を震撼させた「硫黄島の戦い」は、映画「硫黄島からの手紙」で再度世界へ知らしめた。
島の随所にある日本兵が身を忍ばせたという狭い地下壕に入っても見たが、とても長時間とどまることなどかなわない。なにせ、島全体が地熱で熱い。ところどころには硫黄が噴出している。
食料はもとより、飲み水にも窮した兵隊たちは、ここで必死の攻防戦を展開する。
その不屈の抵抗、おそらく全世界にも類を見ないような忠誠心と勇ましさ。しかし、皮肉なことにその抵抗が余計に日米の死者をいや増す結果となった。
最後は、月とスッポンほどの差がある米軍の圧倒的な兵力によって、この地硫黄島で日本軍は陥落するのである。
これを読んで、「ヤン○○が! ふざけんな!」などと思う方もいるかもしれない。
しかし、いつもそれが「戦争の火種」になるのだ。
しかも真の敵は米軍ではない。
「チューインガムを噛みながら大砲を打つ」ような米軍兵士にしてみても、国には家族を残してきており、家庭ではきっと良きパパだったのだろう。
この地、硫黄島で命を絶った日本兵、そしてアメリカ兵は、おそらく内心は「敵国憎し」で戦ったのではないと思う。
改めて英霊に対して感謝とご冥福を祈りたい。
途中から、泣きながらこれを書いた。
私たちは、一度思いっきり涙を流さなければならない。
そう思った。
東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。