わたしたちは永遠に途上にある
語りつくせない
語るものは
語りつくして
やがて彼方へと去ってゆく
昔からの私の持論は、人間というものは、着(き)のままで自由で幸せなものである、ということです。
おそろしくシンプルで、そこに何の議論をさしはさむ余地もないほどです。
なぜに堂々と、悪びれもせずにそんな大言壮語を言えるのか?
おそらくは、この往く当ても見えない人生航路において何度も座礁し、沈没し、救援を叫んだり、、、と、およそ順風満帆にはいかない自らの生のあり様を眺めやるとき、かえってそこにそう言わしめる何かがあるような気がするからです。
すべてを悟って、時にはそこに神を奉斎するような”できた”人士が同じ言葉を唱えるのならば、信ぴょう性も増すのでしょうが、私はその真逆である。
世界に眠る秘宝、秘教、秘儀を探り当て、しかるべく修行によって真理を究め、5次元やら13次元やらにその身を蟬脱し、ようやくにしてそう語りえる者であれば、尊い言葉として価値もいや増すのでしょうが、私はそうしたものを否定する。
何であれ卓越した人物は、多くの一般人との間に乖離があるから。
それ自体、すでに葛藤を生むのではないか?
そもそも崇高な何かに至ろうとすること自体、私にはフィギアスケートで4回転半や5回転に挑むようなことと大差がなく、それは出色でこそあるがそれだけである。
一個人の抜きんでたプレーが一般人に及ばないものである時点で、それはすでに人生ではなく曲芸である。
ぶつけなくてもいいような角に頭をぶつけ、落ちなくてもいいような穴に嵌る、、悲壮でこそあるが幾分ユーモラスな大方の人生。
私はそういうものにそこはかとない余韻を感じるのです。
やり切った後にさらに未開の荒野が開けるようなエンドレスな人生。
終点がない人生。
関わりたくもないのに断り切れずにお付き合いし、つまらぬいがみ合いや小競り合いを見せつけられ、挙句の果てにとんだ側杖を食らわせられるような人生。
四六時中愛だの快適だの便利だの、どこそこのジェラートが旨いだの、オールインクルーシブのお宿が最高だの、新種の健康法だの美容だの有名人がどうしたの財テクだのお得情報だのの暇つぶしの繰り言を聞かされる人生。
暴力と争いが絶えないどころか深化するにつけ、
愚かさとその無自覚が増大するどころかそれに麻痺するにつけ、
そのまがい物、ニセモノ、こけおどしの像が幾重にも層をなして迫りくるにつけ、
思いがけずにも、それら塵芥を祓うことで、かえってことのほか素の姿、”着のまま”の姿、プリミティブな美しく穢れのない人間の姿がオーバーラップされてくるではないですか?
汚れてくもってしまった水晶を磨くがごとくです。
そういう意味で人間は自由で幸せなのです。
ただし、そのまくら言葉として、「元来」とか「本来」を付け足さなくてはなりません。
後天的に、人は今日の狂乱と戦争と暴力を生み出しました。
私はそう思います。
よって、私の敵は生来のものを覆い隠すものです。
決して悟道とか解脱とか涅槃などへ向かおうとするものではありません。
むしろそうした幻想を払いのけることです。
敵。
その正体は、私たちに馴染み深いあのうるさい詮索です。
常に結論へ導こうとする強引な究明です。
世界を鋳型に入れたがる「思考」という暴力です。
思考による歪曲、分離、ご都合主義が人類を今日のように堕落させたか、
あるいはそうしたエゴイズムに傾斜してゆくような思考の型がそうさせているのかのいずれかです。
よって、私は決してなにものにも「YES」を言わない。
たとえ万人がそうだといえども、
一万年来そうであったとしても。
分裂が比較を生み、それは暴力を招く
一点をピックアップしたり、それに集中するということは、それ以外の事象をそれ以下に見たり、等閑視することである。
または、その対象に用を認め、それ以外は無用とすることも含まれる。
これは、その前提に比較がある。
比較は暴力だから常に闘争を生む。
比較は分裂である。
分裂が無ければ比較はない。
山を一つの稜線で表せば、それ全体が山である。
しかし、そこに「山頂(高所)」「裾野(低所)」と分断するとき、それは山ではない。
それは単なる高所であり、また低所である。
それは部分であり全体を忘れている。
それのみでは何らの美しさも感動もない。
自らが高みに立って、それを自分だとして譲らないことは、その高みが無数の低所から成り立っていることを忘れている。
頂上に立つことを目標とし、そのための努力を尊いものとし、
他人を邪魔者として蹴落とし、自らは瓦礫だらけの山頂にしがみつこうとする。
そんな人間が百万もいることから、世界は常に不安と闘争が絶えない。
街中を歩いていると、ふと、ある女性がクローズアップされた。
「いい女だな」とか「かわいいな」とかなんとか。
それはおそらくは罪のないピックアップである。
なぜなら、周囲の女性や、彼女の隣の女友達らしき人物は目につかないのだから。
世界は彼にとってみれば、むしろ彼女を際立たせている背景・借景でしかない。
用・無用でいえば、これまた無数にある。
あなたが空を描こうとしたときに、茶色の絵の具は無用に違いない。
しかし、大地を描こうとすれば茶色は俄然入用になるばかりか、それまでの空色はおおむね絵具箱に戻されることになる。
なにかを評価する、それに価値を与えるということは、その対極のものを無価値にする。
いかなる崇高で敬虔なものであってもである。
いや、そうであればあるほどである。
例えば、「読書は人を賢くする。だから積極的に読書をすべきだ」
とすれば、あなたはどうだろう?
「その通りだ」と思われるかもしれないし、事実そうなのかもしれない。
しかし、そうであればなおさら、「読書を嫌うもの、本を読まないものは愚かである」と暗に言っていることになる。
しかし、読書嫌いなものが愚かであるという道理はない。
ここに葛藤が生まれる。
心理的にも、読書嫌いなものに劣等感や疎外感などの傷を与えるばかりか、読書好きなものに優越感や慢心を与えることにもなるかもしれない。
あなたに贔屓の人物がいるとする。
あなたは彼に心酔する。
または崇める。
それは、おそらくは凡庸で愚かで狡猾で醜悪な、あなたの中にある一連のものを凌駕していることだろう。
しかし、それらの総体が彼を生んでいる。
だから、彼を崇めることはそれらをも崇めることである。
何も物事をけなしたり、見下したりしなくても、何ものかを特別視したり、それに価値を与えることで差別が生じる。
それを普段に私たちは行っている。
取捨択一しているわけだ。
思考は、いつも取捨択一を繰り返し、結論を導き出そうとする。
結論は、それを受け取る側が納得し、共感し、シェアする段階で権威になる。
権威は葛藤、闘争を生む。
そういうわけで、思考はいつも暴力である。
そういうわけで、世界に暴力は絶えない。
私たちはエゴイストである
まことに手前勝手な話である。
これは紛うことなくエゴイズムである。
しかしそのエゴが芸術作品や科学的な発明や哲学や宗教を生んだ(「いや、私の哲学・宗教・信念はエゴを超克するものである」とあなたは言うかもしれないことを含んだうえで)。
さらにエゴは悲喜こもごもの人生を綾なした。
つまり、この絢爛で、なおかつ暴力にあふれた文明を生んだ。
しかし、となると個人の関心や好み、いやいや信仰にせよ、それはエゴイズムということになる。
娯楽や慰安、または気晴らしがエゴであることは自明のことである。
そしてそれらが逃避であることも言わずもがなである。
逃避には、現状への抵抗がある。
現状に辟易し、満足できないことからスタートしている。
しかしそうした自己を抱えたまま、どこに逃げようが何も変わらない。
何も変わらないからこそ、またぞろ逃避行に走る。
それでは、もっと高尚な宗教はいかがだろうか?
それは現状を否定し、そこからどこかへと私たちを連れ去ろうとしてはいないか?
あらゆる宗教はエゴイズムである。
それはエゴの深化したもの、あるいは知恵が狡猾にそれを美化、神聖化したものである。
利他とか、世のため人のためとか、陰徳あれば陽報ありとかいう。
すべてエゴイズムである。
言うまでもなく、それらは暗に見返りを要求しているから。
ギブアンドテイクだからだ。
自分が可愛いからこそ、あなたはその教義や奥義、神秘に畏敬の念を抱く。
自分だけが救ってもらいたいからこそだ。
何かしら超自然的な、奇跡と言われるものが自らに顕現してもらいたい。
人は迂回しつつ流れる水路を、最終的には自分のもとへ来るように仕向ける。
物(カネ)はすべてと考えるものはエゴイストである。
スピリチュアルがすべてと考えるものも同様である。
奇妙なことに、注意深く観察すると、スピリチュアルを云々するものも唯物主義者であることが多い。
となると、両者は同じ穴の狢同士で埒のあかないいがみ合いをしているに過ぎない。
これらのことは、人類史数万年にわたって同じことの繰り返しである。
あなたや私はそのようにしてエゴイズムをさらに掘り進めてきたし、いまもそのようにしている。
私たちはエゴイストである。
私たちの行為はどこまで行ってもエゴの域を出ない。
エゴイズムから脱却しようとする。
しかし、そのこと自体がエゴイズムである。
それはちょうど、病の症状だけを消そうとする行為に似ている。
なぜ、病になったのか、
なぜ、自分はエゴに陥ったのかを探らないし、探ろうとしないからだ。
自分を離れて他所に原因を転化している。
そこに「脱却」もあったものではない。
日々どこかで「愛」が語られる。
しかし、語られる愛は愛ではない。
愛は決して見返りを要求しない。
しかし私たちにそんな愛を愛したことがあるだろうか?
愛には始まりも終わりもない。
だからどこかで始まった愛は愛ではない。
それはエゴイズムである。
愛は昔からそこにあったかのようにデリケートでか弱く
しかしすべてを受け入れる力強さを備えている。
思考はそれ自体辺境でしか通用しないローカルなものである
それでは、私たちは永遠にエゴイズムという手枷足枷をつけたまま奴隷のように生きてゆかなければならないのか?
不平不満ではち切れそうな心中を、あちらこちらにぶつけて、そこら中に騒乱の火種をまき散らすような、そんな人生を続けなくてはならないのか?
果たして赤ん坊はエゴイストだろうか?
乳を要求し、泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑う。
思うようにならないとぐずる。
それでいて万人に愛される。
よく「他人に迷惑をかけずに」とか言う。
しかし私たちは他人どころか、大地に、植物に、動物たちに大いに迷惑をかけつつ辛うじて生きているようにも見える。
砂漠の炎天下で干上がった人物が、オアシスに湧き出る水を無我夢中で口中に流し込む。
飢えた人物が出された飯を無心にかっ食らう。
これらすべてをエゴイズムと呼ぶのだろうか?
無私であるとき、エゴイズムはない。
もっと純粋で尊いものとしてそれは存在する。
それを「生の躍動」とかの学者もどきの言葉で謂うつもりはない。
ただただ至極当たり前で堂々とした姿がそこにある。
一つだけ言えることは、そこに「思考」はないということだ。
人の思考はいつもローカルなものである。
思考は全体を見ず、いつも部分を見る。
部分に多くの結論を与える。
結論は死んでいる。
部分をさらに分析する。
それは多くの闘争を生む。
では、常に思考を繰り返す人間というものに、闘争、暴力、戦争は不可避なものなのか?
エゴが文明、テクノロジーの進展の推進力であれば、戦争による悲惨はつきものなのか?
私たちの思考はローカルである。
「型」がある。
「定型化」「類型化」が一定の方向付けをしてくる。
そこにいれば同じように流され同じような方向に連れていかれそうになる。
それを「安心」と言うものもいる。
分裂は孤独を生む。
孤独は他人と同じことを求めるからだ。
そこに何の新しさもない。
それは過去のものであり、すでに死んでいるからだ。
何かの経験がそのもとになっている。
そのもとのもとのもと・・・。
人は知らずに同じように考え
同じような夢を持ち
同じような嘘をつく。
それらを繋ぐ。
それが連綿と続く「思考」である。
ああ、経験をもとにしない思考はあり得ないのだろうか?
経験から伸びてくる触手に「No!」を宣告し、
それを断ち切るような無邪気な勇気。
こんこんと湧き出る泉のように、
つねに無垢で、
処女性を保ち、
あらゆるものに清冽な息吹を与えるような・・。
そんな思考は身を打ち震わせる感動と共にある。
すべてを眺めるから生命の躍動がある。
人の作った思想や想念や観念と違い、それは腐らないしカビも生えず、いつまでも新鮮だ。
幸せになりたい
今よりも良い生活を送りたい
何か楽しいことはないか
人類の寝言のようにそれらは呟かれてきた
しかしそれら願望は実在しない
それらは、私たちの分裂・比較から生じた
私は隣人やその隣人たちと比べて、生活水準が低い
欲しいものもろくに手に入れられない
みじめだ
と言ったことなどがその前提になっているし、それは多くの労働の原動力にもなっている
おまけにコマーシャリズムがそれを焚きつける
そうして彼や彼女は努力の末その「願望」を手に入れた
その暁にこうつぶやくのである
幸せになりたい
今よりも良い生活を送りたい
何か楽しいことはないか
他者比較という毒杯は、それを飲み干し、空にするまで、私たちを苦しめるのか
生は未完である
宇宙は完成品ではない。
だから、宇宙は自らを「神」だとか結論を出さない。
結論を出した瞬間に、それは終わりを告げる。
宇宙は(発展ではなく)拡大途中である。
気の遠くなるほど拡大しながらも、なおこれでよいということはない。
だから年中無休・営業中である(笑)。
宇宙は、私たちがそうであるように、永遠に未完である。
未完であるということは、そこに常にさらなる拡大の余地が残される。
結論づけたり完成させたりすることは、それを終わらせることである。
死に至らしめることである。
宇宙に目的はない。
目的もシナリオもない。
あったとすればそれは分裂である。
もしそうであれば、私たちはその決められた筋書きを辿るのみである。
あなたの手元にあるその冒険小説やSF、推理小説の主人公か脇役として、あなたは役を演じるにとどまる。
宇宙が私たちを離れて存在することは不可能であるばかりか、両者は一体である。
すなわち、シナリオを作るのは私たちである。
シナリオには起承転結の結びがない。
あるいはそれを繰り返す。
未完である。
未完の中身は、試行錯誤や間違いや失敗や軌道修正や、その他のいわゆる「人間臭さ」と言われるものである。
「人間のやることだから仕方がないさ」とかいう。
これに付け加えて、私はこうも言っても許されると思う。
「例によって宇宙のやることだから大目に見てやってくれ」
宇宙がそうであるように、人間に自らの愚かさや、自らの小ささを見つめる内省の目があるということは、さらに伸びるための余白であり、余地である。
人生は未完である。
未完であることは、生きているということだ。
完成していたら死ではないか?
あやかるわけではないが私も未完である。
未完も未完、一夜にしてそう気づくほどの未完である。
(自分の書いたものを翌朝見直すことほど愕然とさせられ、また腹の底から笑いがこみあげてくるものもない。とりわけ若い時分では)
昔は、
「この一生で思い半ばにして生を終えることだけはしたくない、
世間はともかくとして自分の中では納得できるなにがしかで一家を成したいものだ」
などと思っていた。
とんでもないことだ。
思い半ばどころか、一分の思いすら成就できない。
おそらくはこのままあの世へと旅立つに違いない。
心残りとか、遺憾とか人は言う。
しかしそれは、人生を完結するものと思い込んでいるものの幻影である。
人生などない。
なぜならそう言った瞬間に、それは過去のアルバムのようなものになってしまうからだ。
今この瞬間こそが永遠に未完の人生ではないか?
となれば、もはやもっと積極的に「心残し」でもいいくらいかもしれない。
焦る必要はさらさらない。
生涯とか一生とかこの世とか人は言う。
一体その言葉は何処から来ているのだろう?
何処を尺度にしてそう言っているのか?
そんなものはない。
不完全さ、未完というものの奥ゆかしさは人智を超えて計り知れない。
何と素晴らしいことだろうか!
永遠の途上
そこにはだれもいない
あなた一人だ
友もいない
うるさく心配する取り巻きもいない
かつて愛した、また愛された者もいない
頼る者もいない
師もいない
神もいない
神霊もいなければ守護霊もいない
教えもない
書もない
真理もない
法もないから末法もない
三位一体もない
奇跡もない
神秘もないし、深淵もない
だから、比較がない
比較がないから過去はない
未来もない
この世もなければあの世もない
ここもなければ
かしこもない
ただあるのは、
今のみである