なぜ「幸せになりたい」のか?
「幸せになりたい」という願望が人類共通の願いであったとき、それは、「いまだ幸せではない」ということを物語っている。
願望はそれを知っているから「願う」ものであり、
また、それを知らなければ「願望」はない。
つまり、私たちは「幸せ」を知っている。
そこまでは、確実な事実である。
しかも、「幸せになりたい」という願望は、人生の他のあらゆるテーマを凌駕して、ナンバーワンのそれである点、突出している。
だからこそ、万人が万人、みなこぞってその「幸せ像」を追いかけるのだ。
ただ問題なのは、せっかくつかんだと思ったその幸せは、瞬く間に砂粒のように手のひらから零れ落ちてしまう。
しまいには、「いまだ幸せでない」自己を認識する、などの悲劇がなぜに生じるのか?
「お~い、幸せの神様が今から門を開けなさるゾー」
仮に、「幸せの神様」がいたとする。
それにはこんな事情があったに違いない。
幸せの神「フヮー いやーすまんすまん。ついうっかり5000年ほど昼寝しておって、幸福ゲートを開けるのを忘れておった。いま開けてやるからな、どれどれ・・・〈ギイー〉」
☆☆☆彡〈キララララララ~ン〉
サラリーマン 「おや? おいおい、こんな都心に大理石のマイホームだぜ! おまけにあそこに見えるのはプールか? ガレージにはポルシェまでとまってやがる。マジでこれ、ぜんぶ俺のものなのか?」
OL 「ウッソー、マジでー。お給料が自己申告制? しかも見てよ、あたしのクローゼットの中、CDやマルジェラばっかしだし、や~だー、だれ? こんなにビトンのバッグばかしプレゼントした奴は? そか、ア・イ・ツか」
農夫 「ハァ おらがーのー方にも出かけてこいや~っと、田植え? いやーこれはわしの趣味だべさ。天気がいいから運動すっぺと思ってな。米なの、ほれそこのプラントが全部やっからさすけねーのさ」
漁夫 「さかなさかなさかな~さかなをたべ~ると~、と来たもんだい。見てくれや、昨日まで甲板に海水が上がってきそうなボロ漁船だったのがよー、こいつはもう豪華客船じゃねーか! それとな、漁なんてじぇーんぶ機械がやってくれっからよー、俺は暖けー船長室でお昼寝さ」
てなあんばいに、みんなが一様に幸せではない理由が、ドラえもんのような「幸せの神」の単なるど忘れ、寝坊だったということであれば、ジャンジャンで納得するし、すっきり一件落着するのだが。
(↑ しないし ↑ むしろ怒るで ↑ やいのやいの)
「人並の平凡な生活」の基準がすでに人並ではない
しかし、である。
おそらくこんなご意見も少なからずあるに違いない。
「そんな絵空事のような幸せなんてどーでもいいの、私は人並みの平凡な生活ができればそれでいいの」
その気持ちは、痛いほどよくわかる。
そこには、
「過分な贅沢はしないでつつましやかに暮らしていきたい」
「そこに小さな幸せを感じていたい」
という日本人らしい謙虚さの美徳があるから。
でも、そこで幸せはこじんまりとしてしまう。
なぜかというに、すでに「人並み」そのものの基準が「切り詰めてようやく生きていられる」的なところまで下落しているからである。
この「人並の平凡な生活」という基準は、当然それ以下の有事的な局面に立った目線である。
例えば、いま戦火の中にいるものが欲しいのは、「平和」であるし、
借金地獄であえいでいるものにとっては、「当座のカネ」である。
重篤な病に臥せっているものは「健康」こそすべてである。
もちろんこうした火急の事態の前で人類は幸せではないことは言うまでもないが、そうした”災い”を消し去ることがイコール「幸せ」ではない。
それは単に「鎮火」であり「応急手当」「対症療法」であるにすぎないから、その目先の問題が解決できたからといって、まだ「幸せ」とは程遠い。
苦難を乗り越えて、ようやく”人並みの”生活にありつけたからと言って、幸福とは限らない。
そんな生きたエビデンスは、一見平和で、経済的にも満たされているかのように見える戦後の私たちのすべてが物語っているではないか?
では、「幸せというものは、もっと日常的な断片にこそあるのだ」という意見はどうだろう?
娯楽じゃない、慰安じゃない
「幸せ」が、その辺に転がっている「娯楽」や「慰安」とは違うことは、そう認めたくないにせよ、私たち自身分かっている。
お風呂上りに、一杯の生ビールをあおる。
「くー、幸せだなあ」
「今日は、大好きなGODIVAにしよっと。自分自身へのご褒美なの」
「よーし、今夜は久々のキャバクラめぐりといきやすかー。この界隈ならまかしときなって」
などが、一過性の刹那的な「慰安」や「気晴らし」程度のものであることは、他人に言われずとも本人が一番自覚しているところだ。
時間の断片を切り取って、それを「幸せ」というのならば、それ以外の時間は「不幸」ではないとしても「幸せ」とは言えない。
「いや、こうして生きていること自体幸せだ。それに感謝することだ」
「日々是好日」
「幸せのしっぽを追いかけて・・」
はっきり言わせていただくと、
全て嘘。独善。ひとりよがり。闇側の手玉に乗っかっているだけ。そんな箱庭のような世界で満足しているのは、あなたではなく、支配者側だ。あなたたちすべてが、飼いならしやすい羊たちになってほしいのだ。
私たちが、どんなに「幸せ」と思ったにせよ、その裏で地上では日々何千、何万という子供たちが餓死している。
右も左もわからない子供たちが、生きるために必死に窃盗を働いたからといって、私たちにそれを咎めることができるのだろうか?
その代償のような「幸せ」がどうして独善といえないのだろうか?
第一、幸せがそれほど「哲学的な」あるいは「高尚な」問題であったら、だれもそんなものを追い求めたりしない。
私たちは、どこをどうあがいても幸せなんかではない。
背伸びしたり、やせ我慢をするのは止めて、もっと正直になろうではないか?
「結局幸せなんて、知らない、分からない」と。
「幸せ」を私たちは知っているくせに、それがなんだかわからない。
知ってるくせに知らない「幸せ」
私たちの「集合無意識」ともいえる彷徨えるドリーマー「幸福」は、こうしてところを得ないまま十年、百年、いや何千年と、この地上、あるいは想念の海をたゆたってきた。
それは、なぜ私たちの中に着地しないのだろうか?
「幸福よ、私はお前を知っている。よーく知っている。だからこそ何度も生まれ変わってまでお前を探し求めてきた旅路だ。でもお前は逃げる。つかもうと思ってもすり抜ける。いい加減焦らすのは止めてくれ」
まるで、「悲劇」の舞台の台詞でも吐かせるように、悩ましい「幸福」である。
釈迦は、この世の「四苦八苦」を認識するところから法を説いた。
イエスは「愛」を説いた。
いずれも、この世が極楽浄土や天国のような世界ではないから、法や教えで人々に諭す必要性があったわけだ。
つまり、少なくともその時代、数千年前から人類は「幸せ」を希求してきたが、いまだそれを手に入れることがかなわない。
そんなおかしな話があっていいものだろうか?
それとも、「幸せ」というものは、そもそも実体のない概念だけのものなのか?
実は幽霊のように、人を惑わしたり、はぐらかしたりするだけのいたずらものなのか?
「それも違う、あれも違う」
なかには、いつの日か、
「求めていた幸せと出会った」
と有頂天になることもある。
しかし、狂喜乱舞するもつかの間、後日それが求めていたとものとは異質な”サムシングエルス”だと気づき、果たして奈落の底につき落とされたりする。
このようにして、万人が知っているはずの「幸せ」は、はなはだ気難しく、そうそう簡単に「YES」を出してくれない。
というか、出したためしがない。
それはさながら、
「こちらはいかがですか?」
と、スタイリストが次々に新しい衣装をあてがうも、
ことごとく首を横に振る高慢なモデルのようにだ。
いや、さらに驚くべきことには、
そのモデルに、そもそもお気に入りの衣装(幸せ)は何でしょうか?
と突き詰めて問いただしてみるといい。
「さあ、何かしら?」
と、おそらく彼女は見事に返答に窮することだろう。
「あれも違う、これも違う」
自分の探しているもの、
それも必死に、
血みどろになってでも探しているもの、
それがなんだかわからないのだ。
かくして、人は漠然としたその「幸せ」像を追いかけて、
フィアンセや、マイホームや、ホームドラマのような家庭や、クルマやらを手に入れてみたりもするが、それを手に入れるや否や、
「いや、これではない」
と、またぞろ満たされない心が、あて度のない「幸せ」を希求する。
まるで、その繰り返しが「人生」なんだとでもいうかのように。
この地球に何のためにやってきたのか?
人類の歴史とともにといってもよいくらいに、長い間最も身近に寄り添いつつも、最も謎であった「幸福」というものが、果たしてなぜそうあるのか?
ようやくそのベールが剥がれる時が来た。
私たちは、二元性を超えた一元の世界を知っている。
いや知っているどころではない。
長い間その世界で自由に遊んで暮らしていたのだ。
その世界は、光と愛と喜びの世界で、一切の「闇」がない世界だ。
原因と結果、思いと行動、時間と空間・・・それらが溶け合っている完全に自由な世界。
私たちは、そこから来たのだ。
そこから、わざわざこの悩ましい二元性の世界に来たのだ。
その私たちの住んでいたもとの世界での経験を、二元性の言葉では「幸福」と呼ぶ。
そこから、私たちは、堕天使のように堕ちてきたのではない。
それは、私たちの意志で、選んで、この地球という惑星に来たのだ。
幸せの世界から来たからそれを知っている
この地球は、約25000年前からキメラ、アルコンという邪悪な異星人どもが隔離し、支配してきた。
奴らは、狡猾にも、特定の国家や民族や秘密結社などを隠れ蓑として、あるいはスケープゴートとして利用し、自分たちはその背後に隠れつつ、頂点として何万年もこの地球に寄生してきたわけである。
奴らの所為は、この地表はるか、太陽系に「ヴェール」というスカラー電磁フェンスを張り巡らせ、人類を(死後も!)そこから出られなくしたばかりか、外宇宙からの善意の異星人の訪問にも規制をかけた。
私たちは何のためにここに来たのか?
それは「イベント」を共創し、この惑星地球を二元性から解放するために来たのだ。
それが目的で、それ以外にない。
もはや、これまでのように「幸福」を希求するようなときではない。
なぜなら、それはこの二元性の世界から一元(ワンネス)の世界を瞥見するような、一種の「憧憬」に過ぎないからだ。
覚者や聖人ではないからこそできること
私たちは、この二元性の世界を一元世界に転換するためにここにいる。
私たちは知恵のマスターでもなければ、聖人でもない。
しかし、それができるのは私たち以外にいない。
なぜなら、私たちだけが、この二元性の世界の狂気や欺瞞、不公平、面妖さを腹の底から体感し、味わい尽くしてきたからだ。
それは、断片的な今この時代の私たちの体験だけではなく、遠い先祖の時代から続く遺伝子の情報にも組み込まれている。
そんな消息は、一元世界の天使にも、覚者(アセンデッドマスター)にとっても、おそらくは想像を絶するものであるだろう。
真に状況を知らなければ、それを変えることはできない。
状況を知っているのは私たちだ。
さあ、目を覚まそうではないか。
幸福は求めるものではなく、
創造するものであることに。