彼岸と此岸
宇宙
宇宙と言うとき、あなたは宇宙と離れている。
世界と言うとき、あなたは世界から孤立している。
人類というとき、あなたは人類と離れたなにか別のものである。
肝心のあなたが不在だからだ。
だから、そうしたアプローチはまったく無意味であり、
そうした論理は不毛である。
目的
目的は死である。
目的は達成するために設けられる。
達成はゴールであり、終着点である。
その先はない。
だから目的は死である。
生には目的がない。
もしくは、決して達成できないものである。
だからそれは永遠である。
目的はいつもエゴが決めている。
または必然性(という家庭や社会との関係性)がそれを決めている。
満足
満腹がそれ以上に食えないように、
満足したらそれは終わりを意味する。
不満は充足を求める。
満たされているものは満足を求めない。
しかしみな一様に
人生に満足ばかりを求める。
終わりばかりを求める。
欲望とは
それを満たしたいという欲求であり、
それはことごとく終わらせたいという欲求である。
困難
困難はそれを一刻も早く解消することを望んでいる。
愉しみや慰安、快楽もそれの充足ばかりを望んでいる。
いずれも終わることを望んでいる。
死に属するもの
評価、レッテル、功績
これらはその人物を過去のものにしてしまう。
それは墓碑銘と同じく死に属する。
あるいは標本のラベルのように
目、属、種とカテゴライズされるのに似ている。
そうしてその人物は類型化、分類され、やがて風化される。
どうでもよいもの
大切なものの異称
無駄
と思い込む野蛮な精神
あるいは、選り好み
とらえどころのないもの
あなたが、何ごとかを真理と呼ぶ。
しかし、断定した瞬間にそれは真理ではない。
真理はとらえどころがなく、それゆえに未知なものであるから。
とらえどころがなく未知なものは生に属する。
あたりまえ
あたりまえと言う牙城を崩さなければ前へ進まない。
結局なにをすべきか?
すべきことは何もない。
なにを問題にしているか?
それはその人物の居場所である。
すなわち、宇宙の中の座標である。
知っていること
知っていることしか知らない
しかし、大概はそのことを知らない
良書
それを読むことが慰めになるものではなく、
それを読むことで打ちのめされるもの。
呪縛
古来からの伝統、習わし、道徳、因習
それによって封じこまれた思考、あるいは性向
とりわけ万人が愛し、崇拝し、祭り上げてきた聖賢の言動、思想、悟り
良くも悪くもそれらが私たちの自由を奪ってきた。
あなたはそれによって心の平安を得たという。
それら伝統が文化に深い陰影を与え続けてきたという。
真理は不変なものだという。
しかし、どうしてそうであるのであれば、今日のこの世界の腐敗、狂乱、欺瞞、不幸、そして悲しみの様なのだろうか?
それらは、”少しはまし”になったのだろうか?
いや、それは十年一日のごとくだ。
まったくそれらが無価値、無効力であったことは火を見るよりも明らかではないか?
であるとすれば、それこそ最重要問題である。
もし真理というのであれば、刻一刻と変化してゆくものこそ不変の真理である。
それは、今あなたで始まるものである。
決してそれに十字架を打ち付けるような真似をしてはならない。
銘文を刻み込んではならない。
不動の信条にしてはならない。
信念にしてはならない。
それらが、争いや騒乱を招くからである。
共感
現実には存在しないもの──幻想、ユートピア、夢、空想、感傷、慰めに共感し、自ら直面している現実から逃げる。
それは形を変えた自己憐憫であり、宗教の萌芽である。
NO!
人類の突端がNO!を言うことで、新鮮な空気をもたらし、
それによってまた人類は拡がり、新たなものに変化してゆく。
理解
始まりもなく終わりもない世界
それは誰一人理解しない。
それは理解を超えた世界だからだ。
通常の事柄のように理解して終わらせることが不可能な世界だからだ。
「愛」が理解や共感とは全く異質であるのと同じように。
もし「愛」を理解したというのであれば、それは憐憫や所有欲、自己投影その他はるかにそれとは正反対の異質なものを指す。
自分
自分については他人は分からない。
しかし自分はさらに分からない。
なぜならそんなものはないからである。
今
今しかない。
今以外に、
過去も
未来も
あなたも、
私も、
夢も、
現実も、
欲望も、
戦争も、
金儲けも、
いざこざも、
平和も、
宇宙も、
一切存在しない。
あなたの今が
世界の手綱を握っている。
なぜなら、世界はあなただからだ。
言い訳
責任や、恐れから逃げようと言い訳をする。
それは人間の頭脳の狡猾さの表現である。
野生の動物たちには言い訳がない。
学習することで初めて言い訳を覚える。
エビデンスは?
ソースは?
アリバイは?
証拠を提示したり、
正当防衛を主張したり
自らに非がないことや自己正当性を主張する。
それは不信の構造である。
あえて正義を主張するということは、不当性、嘘、欺瞞の温床から生まれる。
社会は言い訳に基づいている。
なぜなら、空気のように当たり前に言い訳する私たちが社会をつくっているからだ。
言い訳をするものが言い訳を要す社会をつくったし、
言い訳を要する社会が言い訳をする私たちをつくった。
あなたは、それが自由主義や社会主義やその他政治理論・ポリシーに基づいているというかもしれない。
しかし、理論そのものからして口実であり、言い訳である。
実体のない空っぽの箱である。
なぜなら統治するもの、されるものという構図が現実社会だからだ。
このようにして私たちの生きる受け皿、社会そのものが言い訳に基づいている。
もし、この世から言い訳がなくなったとしたら、革命が生じるだろう。
第一にトップは亡命する。
政治家は失脚する。
御用学者らは失職する。
大手企業は解体する。
裁判所は閉鎖する。
学校は全く違ったものになる。
貨幣は金本位制になる。
マスコミは自ずと浄化する。
外から生じる革命は暴動だが
内から始まる革命は無血である。
内から始まる革命は個々人から伝播する。
それはどこか外部に在るものを破壊し、立て直そうとはしない。
自らに始まり、自らで終わる。
それを他人や外部に一切強要しない。
言い訳は、いつも仮想敵をでっちあげる。
誰かによって自らがみじめな思いをした
何かの間違い、不手際によって嫌疑をかけられた
上役によって自らは貶められた
妻や夫によって自らの人生を狂わされた
我が国のサムライはそれを最も恥じた。
仮に、あらぬ嫌疑をかけられたとしても、そうした隙が自らにあったのだから自らに非がある、と言う精神。
決して言い訳をしない。
言い訳は自由を放棄したことを意味するからだ。
修行
修行や鍛錬、克己、忍耐
これらも自己憐憫である。
彼岸と此岸(しがん)
川が隔てているのではない
川を介して繋がっている