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5次元の取り扱い方 【FRAGILE】

ここでいう「5次元」とは、3次元から解き放たれた世界を指します。

それは、「永遠の自由・絶対の正義・無限の幸せ」の世界のことですから、何次元であろうが構わないのです。それが「サムシンググレート」であろうが「ゼロポイントフィールド」であろうが構わないのですが、そこにおかしな「色」をつけると、それは「考える世界」(3次元)に転落します。

ここで大事なことは、それは「知識」「考え」ではないということです。なぜなら、それらは終始3次元に成り立つ事柄だからです。
ましてや「理想」や「憧憬」「想像」などはもちろんのこと、「趣味」や「好み」といったものでもありません。

「正義」や「平等」「平和」といった、万人が賛同するようないかなる理念であろうが、3次元世界にあっては似て非なるものというか、すっかりニセモノに成り果ててしまうことは、あなたもお気づきのごとくです。
昨今の国連・WHOの動向などはそれを象徴的に現わしていますね。
しかも、そればかりか、それら崇高な理念は、時に戦争の口実として使われてきたし、独裁政治なども同様に、そうした理念をいただいた指導者が、民衆を煽って戦乱の中に追いやっていきました。

そう、5次元のあらわす世界というものは、いやそれこそ、私たちにとっては耳触りのよい虚像であって、それこそが一切の災禍の元凶になってきたわけです。

もう思想や哲学や理念、まして宗教で世界を変えようなどということは願い下げにしてもらいたいものです。
私たちは、いつの時代もそれらの描いたユートピアを見せつけられ、そして裏切られてきました。

3次元は狂乱の様相を呈しています。
そこにあっては、すべては嘘といっても過言ではありません。
なぜなら、それは3次元だからです。
始めがあって終わりがある。
表があれば裏がある。
始めは必ず終わりになり、表は必ず裏になる。
そういう世界で考えているからです。

この認識がなぜ大事なのかと言えば、私たちはみなそれに憧れ、人によっては渇望こそすれ、そのアプローチはほぼすべて上記の手段以外に為すすべがないといった体だからです。
私たちは、さながら火に向かってまっしぐらに突っ込もうとする蛾のようなものです。

5次元は今を扱いますが、3次元は過去を扱います。
3次元はすべて過去のものです。



「永遠の自由・絶対の正義・無限の幸せ」

そういう世界などない、と思われる方はご心配ありません。
そういう世界などありません。
そもそも「ある(存在する)」とか「ない(存在しない)」とかいうこと自体が、人間の考えを通してやってきます。
ですから、そんな世界を肯定しようが否定しようが大差はないことですし、無意味です。

その世界を体現した人はごく稀かと思われますが、そこに至らんとした人は大勢います。
というより、誰しもがそこを目指してきたし、今もそうであるといってもいいかもしれません。

考える人は、それを哲学や宗教、あるいは社会主義的な思想体系にしました。
感性でとらえる人は、それを芸術(音楽・絵画・文学)にしました。
知でとらえようとする人は、それによって科学や技術、テクノロジーの進展に邁進しました。
そして多くを占める付和雷同の人々は、その時代の権威や常識、モラル、社会通念に寄り添いながら生きてきました。

みな、その先に「幸せ」という個やそれを超えた世界を望見していたわけです。

あなたは、先人の築き上げたその目くるめく文明を「人類の偉大な遺産」と称賛するかもしれません。
なるほどそれは人知の至高の到達点なのかもしれません。
その意味では私も人一倍そう思います。

しかし、その道をこれからも歩むことには懐疑的です。
というより、そうあってはいけないと思うのです。



あなたが、一通りの事象にとどまらず、歴史の裏面や物事の背後に在るものに光を当てる勇気をお持ちでしたら、恐らくお分かりになるかと思われます。
それら至高の人知が、同時に相剋や対立をさえ生み出している事実に。
とんでもなく進展を続けるテクノロジーが、同時に歯止めのきかない殺戮兵器の開発につながる諸刃の刃でもある事実に。

動画中にもありますように、ウクライナ戦争ではすでにAI兵器が投入され、狙った照準は自動的に外さないようなテクノロジーが実用化されています。
誇張抜きに戦場はシミュレーションゲームと化しつつあります。
もはや戦闘員は、ゲーミングチェアに腰掛け、傍らにコーヒーとケーキを楽しみつつ、画面の標的にシュートします。
BGMにはワーグナーか何かの荘重な音楽が流れているかもしれません。
さながらキューブリックの『博士の異常な愛情』を彷彿とさせるマッドサイエンティストの時代が今です。

ゲーマーの彼が、そのシートを戦場に移し、さらにリアルな実戦のモニターに向かえば、彼はたくさんの人間を”気軽に”殺戮できます。
私たちが、外出先から自宅のペットの状況を監視し、自動的に餌やりから水の補給を可能にしたように、そのテクノロジーはリモートで殺戮を可能にしているわけです。
ピザを運んだり、ユーチューバーが気軽に航空写真を撮るのに利用するドローンが、前線では砲弾を搭載して大活躍です。
私たちが携帯に無造作に入れた使わないアプリ同様に、前線では開発者自慢の最新兵器が、その出番を待機しています。
戦場はもはやそれらの実験・検証の場とすら言えるでしょう。



なぜ、このような事態になったのか?
という問いは、それ自体がすでに陳腐化しています。
以前にも書きましたがそれらは、オルダス・ハクスリーやジョージ・オーウェル、ジョージ・オーサワなどが一世紀も前から来るべきディストピア社会への警鐘を鳴らし続けていたからです。
しかし果たせるかなそれら予言は現実化してしまいました。

それに関しては、科学者や社会学者、宗教家らの努力が完全に無効であったことは歴史が証明しています。そして、それはまさに「現代」がそのことを否応なしに象徴しています。
違いますでしょうか?
何かそれは偏ったモノの見方なのでしょうか?
(それらの現象は仮想のモノであって、神や仏の愛や慈愛に満ち満ちた世界がそこにあるではないか! なのでしょうか?)

私は、その真因はほかならぬ「知識」とそれに基づく「学習(教育)」にあると思うのです。だからこそ、これまでそれを拠り所としてきた人知というものが、そうした人類の自滅行為・破壊行為といった暴走に何らの手立てを打てなかったのではないですか?
昔は、それが「物理的な暴力」であったものが、現代では、手を汚さずして遥かに拡大された効力を持った「知的な暴力」となりつつあります。



知識は、研鑽すればするほどに細分化されていきます。
細分化された断片は全体を見失います。

知識の分断化・細分化という意味で、ふとコーリー・グッドがSSPに所属していたころの述懐を思い出しました。
彼は、自らのセクションが一体どういった役割を持つのかを知らされていないばかりか、同様にいくつもある他のそれらセクションが、全体にとってどんな機能をしているのかは不問に付されます。
相互に何をやっているのか知らされないわけです。

あなたが、突然高給な処遇を条件にある開発チームに抜擢されたとします。
あなたは特殊な半導体の開発が任務です。
それは、最新鋭の船体の動力にかかわる重要なセクションであると知らされています。
しかし、そのチップが他で開発された部品と連結して、最終的には指向性エネルギー兵器のような殺戮兵器に化けるとはつゆ知らされていないわけです。

このような例は、おそらく知られている限りでも、戦後ナチスドイツから大量にアメリカに渡った優秀な科学者たちに与えられた使命でもあったのでしょう。
いわゆる「ペーパークリップ作戦」で、それら頭脳はアメリカ合衆国の軍事力の拡大にどれほどの貢献をしたことか、、。

いまでも、例えば日本の優れた科学者などが、考えられない処遇でかの国に流出しているという現実は、その背景にくだんの事情、または策略があることは言うまでもないことです。



先の動画のキャプションで、わたしは「人間の業」と、さも知ったような風な表現をしましたが、それは一体全体何なのかが問題なのであって、そうした言葉の綾で済むことではないのです。

これらの「問題」が、なぜに「五次元」と関りがあるのか?

人類はこぞってテクノロジーの分野でも文化においても発展・進展を希求し、またそうしてきました。
多くの人が、それは「善」であり、人間としてそれこそが「尊い」ものだと信じています。

そもそもそれが問題です。
なぜなら、それによって多くの残虐さや残酷さ、狡猾さ悪辣さも進化発展してきたからです。

それらがいずれも「考えること」に端っを発していることは紛れもない事実ではないでしょうか?
となると、問題は「考えること」その行為自体に何かしらエントロピーを増大させるものを内包しているのか、あるいは、その「考え方」に取り返しのつかないボタンの掛け違いがあるのか、のいずれかか、またはその双方かということになります。

私たちは、恐らく有史以来「考えること」で文明を築き、そうして発展してきました。または、発展してきたように見えます。
それこそが、我々ホモサピエンスが類人猿と袂を分かち、文明を築くまでの原動力になったことは間違いないことでしょう。
しかし、あなたはその「文明」で幸せになりましたか?
幸せですか?

それでは、人類がここで直ちに「考える」ことをやめて、野生の動物のように野に放たれたらどうでしょう?
「そんなことをしたら、喧嘩や殺し合いが絶えない野蛮な世界になる」のですか?
いいえ、そこには今よりもよほど健全で平和な原始社会が訪れます。

ただし、そうした逆行は私たち人類の意志に反します。
私たちは、ボタン一つ押すことで快適で便利で楽しい人生を謳歌してよいのです。
と同時に、ボタン一つ押すことで、遠隔地にいる無辜の人々を殺戮するような狂気の沙汰があってはならない。

考えることがそうした分裂を生むのではなく、
分裂した考え方、その教育にすべての解答はあるようです。








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Monikodo
東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。