超能力を目の当たりにした話3―「考える時代」から「心の時代」へ
「食養」もそうですが、「超念力」も、そこに人類の未来を拓く何かをにらんで訪れる方はごく稀です。
そこには、「自分の病」「自分の仕事」「自分の大事な人のこと」「事業の再生」「金儲け」といったエゴイズムが集結します。
だからといって、彼らが何か”蜘蛛の糸”に群がる我利我利亡者だというのではありません。
私のカバンの一件でもあるように、人間そんなものです。
苦しい時の神頼みどころか、もっと良くなりたい、とその貪欲には際限がないのです。
間違っても、それによって世界がよくなるだろうというのは二の次、三の次なわけです。
(※縋ってくる人の中で、ただ一点注意しなくてはならない問題は、狂信者やメンタル的に深く病んだ方々です。現代社会を反映してか存外に多いこれらのものは、かかわる人々を大いにかき乱します)
石井さんのところに、そうした方法論なり哲学なりを探そうとしても、その方は落胆します。そこにあるのは「隣の○○さんはよくなった」的ないわゆる「ご利益」的な記述しかありません。これでは、いかさか大学教授でも、哲学者でも閉口してしまいます。なんと言いますか、拍子抜けするからです。石井さんは晩年、大手企業の最先端技術者の依頼で講演をしたりしておりましたが、果たして彼らはどうとらえたのか? 理論の無いものに・・。
石井さんは言います。
「今がよければそれでいいではないですか」
「結果が良ければそれでいい」
お分かりと思いますが、そこに「なぜそうなるか(超常現象が現れるか)」は一切ありません。方法論も、教義も、儀式も、マントラもそこには一切ありません。祭壇も、祝詞も、礼拝も、唱和も、敬礼も、合掌も、神妙さも、愛想笑いも、腹芸も、逆立ちも、なーんにもありません。
宗教のように何ものかを「信じる」というトリックではないからです。
人間のような「考える世界」ではないからです。
(あなた方が信じ、愛し、奉じている一切の神、もしくはグルのように──あるいはあなたが到達してしまったその悟りの境地のように)
しかし、逆に言えば「考える世界」を超えた所にのみ、古い言葉で言えば「知行合一」の世界にのみ、この腐敗し切った世界を超えた全く新しい世界がある。そのように思えるのです。
それをあなたはどうとらえますか?
その力を受けるのには、何の制限もありません。
まだ未就学の子供から、普通のおばちゃんやおじいさん、私たちのような凡人で構いません。
わざわざカイロ大学を卒業する必要はないのです💦
「私は心が汚れているし、素直に受け取れない性格だし、さんざん悪さをしてきたし、絵にかいたようなお馬鹿だし・・」
無関係です。
何か修行を積んだり、学識の豊富な「偉い人」である必要はありません。
(あなたもご存じのように)偉い人ではだめですね。
自分で偉くなっちゃってるんですから。
また、自分で「こうである」「こうあらねばならぬ」という信念を築かれている方も同様。
むしろそういう方には抵抗があるから、なかなか素直になれません。
考えない。思ったことをやる
私たちは、「理論」で納得しない限り、腑に落ちません。
(それを別な言い方で言いますと、「考えるな」といわれても考えるものです)
面白いもので、いくら目の前で病が治った、仕事が面白いようにうまくいくようになった「現実」を見せられても、納得しないのです。
それが、考えることの限界とエゴイズムを自ら露呈しており、飛躍した言い方にとられそうですが、それこそが今日の行き詰った世界の狂乱にさえ発展していきます。
今がよくて不満な方はおられますか?
結果が良くなってしまって落胆される方はおりますか?
驚かれるかもしれませんが、私たちはみなそうしてきました。
欲望に際限がないからです。
たとえば、私は貧しくてもなんとかこうやって生きています。
しかし、世の中にはその何とか平平凡凡に生きることすらできない方も大勢います。
病やら事業の失敗で大きな借金を背負ってしまったりなど。
また、ご本人がそうではないものの家族にそういう方がおられるなど。
(受け止められる方はごく一握りだから)あまりネガティブなことは言いたくありませんが、実際の世界は苦しみの渦にあります。それが現実です。
現代社会は苦しみか、それからの逃避(楽しみ)か、の二極で、両者は同じものだからです(考える世界です)。
その中で、本来であれば私ほど幸せなものはないはずです。
ところが私はもっと何か幸せを求めます。
今の現実を一旦脇に置きます。
そうして考えます。
あるいは他者と比較します。
「あいつはポルシェに乗っている、まだまだ自分はみじめだ」(例えばの話で実際の私はそんなものに無関心ですが)
さらには、未来に思いを馳せます。
「もっと金持ちにならなくては」とかなんとか。
この何気ないように見える事実、当たり前のこととして身につけてきた行動こそ、自ら進んで泥沼の中に入り込む要因ではないですか?
それは知らずに他者を踏みつけているような行動です。
この「考えていること」と「今思ったこと」の識別が大切です。
「考え」はなかなかに狡猾だからです。
なぜ今思ったことを出来ないのでしょうか?
「それをするとみんなに笑われそうだから」
「あの人はどう思うかしら」
「君、冗談も休み休み言いたまえ、そんなことをしたらどんな破廉恥な世の中になるか分かったものではない」
(という「考え」)からですか?
今思ったことに、あなたができないことは去来しません。
またあなたが何かよくない方向へ誘導するようなこともありません。
「今」思ったことだからです。
すぐに、速攻行動してしまいます。
それはあなたが考えての行動ではないから、何の下心もおもねりも、要らぬ配慮もありません。
お任せ、です。
あなたが今思ったことが、
たとえ「冷蔵庫の中に冷えたプリンがあったな、食っちゃうか」でも、それはつまらないことでしょうか?
その一時だけを見ればそれはそうでしょう。
しかし、その行動が、次の、また次の行動につながり、何か大発見につながったりしませんか?
石井さんは「はじめからまとまった教えは来ません。それを朝から次々に行動し、5番目には本番が来ます。だから思ったことは片っ端からやってしまえばいいのです」と言います。
どうして、私たちは自ら思ったことすら信頼できないのでしょうか?
そして、どうしてそれよりも自らの信念やら考えを押し通そうとするのでしょうか?
所詮はどこか他人の思い付きの受け売りを・・。
(ここがおそらく人類の未来を分ける、乾坤一擲、伸るか反るかのターニングポイントである可能性があります)
おそらくは数千年来、人類はそうしてきました。
文明が進めば進むほどに、ちっぽけな理性が私たちの行動を妨げます。
いわゆる「しがらみ」という無数にある”檻”に自らを閉じ込め、動けなくさせられています。
人類の活路というものは、何か壮大な体系だった哲学や宗教の中にはありません。
それは(少なくともその第一歩は)、だれもが笑い、または見下すような卑近なものの中に潜んでいます。
理屈の時代は終わった
もう理屈の時代は終わりました。
人間の欲望・エゴイズムが、社会を混乱に導いている。
それが戦争にまでも発展する。
そうしたことはみながみな知っていることです。
それでは、そうしたことを発言するその当事者はどうでしょう?
そのような発言を受けるあなたはどうでしょうか?
彼は、エゴを超克した何か尊い人物なのでしょうか?
それとも、エゴがエゴを非難しているのでしょうか?
で、あなたは彼の発言、方策に従うのでしょうか?
そうして「エゴはいけないものだ」「戦争は繰り返してはならない」と、繰り返すのでしょうか?
それこそが、人間が懲りずにやってきたことです。
「今をどうするか」です。
それがたいそうなことであれば、それは人間の考えです。
そんなことをする必要はありません。
今思ったことでいいのです。
思ったことはそれぞれ違います。
それぞれの道があるから、人真似はしなくていいのです。
人間の考え(過去)はもう通用しない世の中です。
現実を前に、厚化粧をやめましょう。
さて「今」を考えるとき、
そして、記憶や経験といった人間の「過去」に基づく制限された思考を見るるとき、
そこにイメージという隠れ家をつくり、その中へ逃げ込むとき、
それこそが十二分に人間を不幸に導く元凶である事実にぶち当たったとき、
そこで、ハタと気づくものがあります。
芸術はどうなるのか?
そう、ゲージツです。
(せっかくもうすぐ解放されるところだったのに、私という一個の偏屈が待ったをかけています)
いや、情操は?
夢や希望、幻想は?
もっと身近なエンターテインメントは?
映画は?
小説は?
幻想文学は?
SFは?
アドベンチャーゲームは?
コミックは?
トトロは?
ドラえもんは?
白雪姫は?
銀河戦争は?
さながらSNS的共感やアニメキャラのようなスピは?
傷をなめ合う仲良しクラブは?
宗教・哲学は?
それらサーカスの反復は?
いやいや、もっと偏愛で言えば
タルホロジーは?
タルホの形而上学的なお洒落な世界は?
賢治ワールドは?
そのプリミティブな鉱石のような世界は?
デビッドリンチの迷宮は?
タルコフスキーの意識の遠のくような透明な景色は?
その詩と哲学は?
・・・それらはどこかに行ってしまうの?
現実にとどまるか幻想に逃げるか
そうですけど?
執着ですが?
愛着、妄執、溺愛、ナルシシズム、囚われですが何か?
・・・これらは、十分に人間の思想が生んだパペットです。
もうそれは生粋の”思想っ子”です。
なかにはガラクタもたくさんありますが、そんな世界が100万個ほどあります。
いますぐ、それらをごっそり持っていかれて、後に何が残るのか?
私たちが楽しんできたそれ以上の楽しみがそこ(「今」の世界)になければ納得できなくはないですか?
私たちはそこに十分自己を投影してきませんでしたか?
つまり逃避を繰り返してきませんでしたか?
私などは、よく映画を見た後に、その主人公になりきったりしました。
「I'll be back (アイル・ビー・バック)👍」とか・・。
それほどに”影響を受けやすい”脳天気な何ものかです。
子供のころは、ピーターパンだとか、アラジンの魔法のランプだとか、宝島だとか、数多くの幻想世界に遊んできました。
そうした夢を誘う事柄を無に帰してしまうのでしょうか?
夢も希望も奪い去ってしまうのでしょうか?
乳飲み子から哺乳瓶を取り上げるように・・。
この子(私)はすっかり幻想と一体になっているというのに・・。
幻想が儚い一朝の夢として、では現実世界(それも実は幻想)は、それを上回るような愉快で楽しみの尽きないものであれば申し分はない。
しかし、そこにあるのは映画マトリックスにあるザイオンよろしくの避難所のような、終始不安と恐怖の支配するような、管理され、終わりつつあるような人間たちの”ただ生き延びるための世界”であった日には・・。
そうであるならば、いっそ夢と知りつつもそれに逃避、避難した方がよっぽど賢いのではないか?
自分を守るために。
自分を自分で描いた終末図絵に投影しないがために・・。
同じく自分で描いた天使や7人のこびとやハクション大魔王とかを友とする夢幻の世界で遊ぶことの方がよほど愉快な人生ではないか?
(それがまさか罪のないことと、だれしもが考える)
ああ、なんてことだ。
それらに胸ときめかせ、夢うつつになっていること。
それはちっとも新しいことではない。
既知のこと。
使い古された夢、何度も繰り返す希望。
それらの反復。
退廃。
麻痺。
だから私たちはそれを求める。
知らなくて求めようがないではないか?
それら一切合切も、過去の誘う幻惑である。
過去でも未来でもなく「今」の時代の幕開け
私たちは「過去」と「今」との区分をハッキリさせることが急務ではないでしょうか?
私たちが「現実」と言っているものが、実はことごとく「過去」のものであることもわかりました。
その「現実」とは、私たちに先立つ「思考」が「時間」を生み出して生起していることもわかりました(いや、思考=心理的な意味での時間です)。
その現実の中身が過去の意識の溜まったものであり、そこにはすでに制限があるため、それに固執したり、それに願いを託すことがどういうことなのかは、過去の事実と重ねても自明のことであるとわかりました。
「現在」というものは、過去からずーっと引き込んだもので、それでもやはり過去です。
直近の過去です。
また、私たちが普通に言っている「未来」も、やはり実は「過去」の延長したものであり、決して本来の「未来」ではありません。
それらはすべて「考え」が作りました。
しかし、「今」というものは過去が蓄積したものではありません。
「今」のなかには過去がありません。
そこは常に何か新しいものです。
よって、そこにはなんの葛藤もありません。
本来の私たちの向かうところ、
それを「未来──恐らく未知」というのであれば、
それは「今」です。
過去が作り上げた「現在」ではなく、
「今」が作る「現実」とは?
そこでまた「考える」世界に逆戻りするのではなく、その手掛かりをここに書いてきました。
答えを導くのではなく、そこにいくつかのピースを並べてみました。
そこに今まで重ねることができなかった「今」をかさねたとき、一体どのような現実がそこに顕現するのでしょうか?
逆転の真理「人生願い事だけでいい」
さあ、そうした人間の心、精神、あるいは自己、その思考というものを炙り出した賢者・彼が、石井普雄さんとどう結びつくのか?
彼が一個の孤高の”純粋さ”であれば、
石井さんは凡俗の”素直さ”である。
彼の言葉があまりにも正鵠を射ているがために、人々にはそれが時に難解に、時に辛辣に、時にあまりにもデリケートに過ぎるため、その前を風のように吹き抜けてしまう。
石井さんの理屈・説明を要さない奇跡が、あまりにも当たり前に生じるため、人々はそれをそれと認識する間もない。
彼の発展形が石井さんであり、
石井さんを「説明」すれば彼になる。
──とは、まあ部分的な、一端の解釈ですが。
いずれも、「思考」というものを離れたところに、この文明の行き詰まりを粉砕し、人類の新しい道を示唆している点に注意したい。
ここで取り上げた石井普雄さんの名を今ではご存じの方も少ないのかもしれません。
数多くの方が彼の力で「救われた」のは間違いない事実ですし、また多くの方が自分が救われればそれでいいわけです。
もう彼の存在も、その不思議な力もどーでもよい、自分の困難が去ったのだからもう縁がない、関係ない。サンキュー、グッドラック!
それが人間です。
まことに救いようがない、度し難い狢こそが人間です。
当人はそれでいて、その口で「愛」だの「平和」だのを語ります。
それは人間の中身が、人類の意識そのものだからです。
あなたはあなたではなく、人類の意識があなたです。
そこにある潜在的な恐怖心が、あらゆる人間を駆り立てます。
それはほとんど対抗することが困難な「敵」です。
いくら息の根を止めようと斬りつけても、それは巨人に向かって針で立ち向かおうとするような一寸法師です。
たとえば私の「失くしたカバン」事件です。
カバンを失くしたという不祥事は、それはただの事実です。
なかに大切な書類が入っていた。
私は大いに困った。
勝手に招いたミスです。
私以外の誰にも原因がありません。
それも事実です。
どうしようもないことです。
しかし、「カバンが手許に戻ってほしい」
ここからは希望であり、懇願であり、何ものかに依存する精神であり、エゴイズムです。
およそ現実離れした精神で、それを生むのは「責任から逃れたい」という恐怖心です。
それは事実から離れた空想の世界です。
ほかの方々の大小さまざまな人間のネガイ。
みな大同小異です。
病気を治したい、人間関係を修復したい、事業の停滞を打破したい 貧困から脱出したい・・
それらは個々にきわめてデリケートで込み入ったものです。
いろいろ試しては来たものの駄目だった、それは最後の一縷の頼みの綱である場合もあります。
そこにもはや自分の手に負えない現実があります。
通常は、その段階で、なにかしらの「願い」というものと自らを同一視することから、あらゆる悲劇が生じることは散々書いてきました。
醜い自分→美しい自分
貧しい自己→富んだ自分
などなどから始まって
戦争と不安、恐怖だらけの世界→平和で安心な世界
などと発展していきます。
前者が事実・現実であれば、後者は幻想・非現実であることは言うまでもありません。
両者の間に分裂があります。
であることによって、そこに葛藤、いざこざ、闘争が生じて当然だからです。
容姿にせよ心にせよ「自分は美しい」と思っているものが、だれかから「あなたは何と醜いのだ」といわれれば、そこに抵抗、暴力、恨み、嫉妬などが生じます。
しかし、美醜に執着ないものや、心底「自分は醜い」と自覚しているものにとっては、その言葉は何の力も及ぼしません。
ここが人間の悲劇の全体像であるのに、石井さんは全く反対を言います。
「人間、願い事だけでいいのですよ」
これは今まで述べてきたことの真逆です。
自分の都合で、勝手に困難を招来しているにも関わらず、それはすべてご破算にしましょう。そして、また勝手に「そうなりたい」と思っているエゴイスティックな願いを叶えましょう。さあ、何も考えずに30数えなさいです。
一視同仁、または慈悲の無辺の力
その結果その願いが叶う叶わないはともかくとして、あなたはこれをどうとらえますか?
たとえその願いが叶ったにせよ、その根っこにあるエゴイズムは何ら変わっていないことは先に書きました。なぜなら、願いはそれ自体エゴイズムだからです。
治っても、良くなっても、そのおかげでそうなったことすら忘れてしまう。そう願ったことすらも忘れてしゃあしゃあとしている。
彼は、確かにそんな人間をも認めています。
人間とは勝手なものです。
彼は確かにそうした人間の本性を包み込んでいます。
そして、人間とはそんなエゴイズムを出ない存在であることを彼は深くわかりきっています。
それをどうにかしようとは思っていないようです。
それをどうにかしようとする行為は、あたかもおサルの顔やお尻が赤いのを治そうとでもする行為に似ているからです。
私はそこに「慈悲」という二文字が浮かび上がってきます。
彼を崇めて「慈悲深い方だ」というのではありません。
だれかれの分別なく、ただ困っていることを解消する、その行為について言っています。
どんなにそれがエゴの招いたものであっても、まさに「一視同仁」です。
救い難きものにも愛を注ぐ姿勢です。
そこに何が生じますか?
必死のネガイがあります。
自分のことだからみんな必死です。
しかし、それが「願い」であったとき、そこに至るまでの今から始まる時間を想定しています。
時間とは思考です。
普通はそれによって葛藤が生じます。
しかし、石井さんは「考えるな」と、その時間を取り去ります。
瞬時に葛藤を根こそぎにします。
そして「今」と、その願望に至るまでの「時間」との距離をなくし、二者が合体します。
ということが生じます。
ただそれだけのことです。
ただそれだけのことが、人類の積年の悲願、命題を瞬時に溶解してしまいます。
心や精神、意識といわれるものを含む生命の問題に正解、不正解はありません。
花は正しくて咲いているのではないからです。
また、そこに何らかの「結論」を導き出そうとすることは自分自身でその問題に死を与えているようなもので、それで終わりです。問題ではなくあなたの方が終わってしまいます。
あなたは、そこにもしかするとこれからの(すなわち今の)私たちの歩む道があるのかもしれない、と、その日々忙しく雑事に追われるなか、脳裏をかすめるのかもしれません。
後記【分かち合うこと】
本当に大事なものには、理論や理屈はない。
しかもすこぶる単純で明快である。
だから、平素私たちはそれを気にしないで、安心して生きている。
たとえば太陽光線や空気や水のように。
その存在に理屈はない。
あったとすれば私たちが考え出したことである。
私たちが生きることも本来シンプルで楽しいことであるはずである。
難しいことを考えずとも、そこに日々の幸せがあるはずである。
ただ生きているだけで楽しく幸せなはずである。
幸せに比較はない。
だからもっと幸せに、とかいった欲望はそこにはあり得ない。
しかし、人間はそれとは真逆の欲望をさらに喚起するような道をたどって来ました。
詰まるところ、それは「考える」ことが招いた諸刃の剣のようです。
そしてそれが一体どういうことなのかを見つめるとき、ここにあるような苛烈な、そして身をえぐるような自己批判、自己否定に行き着きます。
また行き着かざるを得ないものです。
人間の存在が「考え」でできているのであれば、その「考え」を取り去ることは、イコール「自己」の否定だから。
「人間の知(知識・思想・理念)というものは結局たかが知れている。なにかそれを超えるものが出てこない限り、人類はもはや終わるだろう」
言い換えれば、これまでの人間のあらゆるメソッドは無効だというそれは一つのニヒリズムでもありました。
もう観念で「愛」だの「光」だの「慈悲」だの「平和」だの言う時代は終わったのです。現実に、実際に救われない限り救われません。それは有無を俟ちません。
(このことが決して誇大な表現でも嘘でもないことは、現代社会の様相を見れば誰でも思い当たることです)
この問題の話し相手はほぼ誰一人いません。
みな考えているからです。
完全に一人でそんな問題に明け暮れていました。
あれから幾星霜。
人間の知識という限定された函。
「それを超えるもの」ならぬ、「それに代わるもの(AI)」の出現はあったものの、果たして「それを超えるもの、激しく、圧倒的に超えるもの」はついに・・。
この狂乱の世の中で、正気で生きていくことはますます難しくなっている昨今です。
私も含めて、私の周りも、そしておそらくはあなたも、自分がその中で生きていくことだけでも精いっぱいかもしれません。
しかし、ふと「我に返ったとき」に、この問題は去来します。
人類はそうした悲劇的な未来へ邁進しているかのようです。
それはもはやせき止めることは出来ない大きな怒涛のような流れです。
ここでも述べてきましたように、それは大方の人たちは「自分だけは正しい」という考えを切り離せずに、膨大な人類の「負」の面を直視することができず、他人事にしたいからです。
みな学校、大学という”知の殿堂”で”教養”を身につけ、偉くなってしまったからです。「知的になった」のではなく傲慢になり、「悟りを得た」のではなく尊大になっただけです。
すなわち、心を持っている人、愛を持っている人を探し出すことすら困難な時代になっています。
無理です。
人類には荷が重すぎました。
もうそれはやむをえません。
それはごく一部の方にお任せしましょう。
しかし一方で、たとえ世の中がどうあろうとも、その中で自由に、明るく日々を送る方々もおります。
それの一つのヒントをここで述べました。
最後に、ここで取り上げた賢人のあるエピソードで締めくくりたいと思います。
もう40年も前に遡るのでしょうか。彼は、当時の先端科学者らとここにあるような問題を議論しておりました。
思考の止んだところに慈悲というとてつもないエネルギーがある。慈悲の先には人類不可知の「神聖さ」がただある。
そして終わりに、彼はさてそれをどうしますか? 視聴者や広く民衆とそれを分かち合いますか? との問いを皆に振りました。
みな、一様に「分かち合うべきだ」とその意を確かめていましたが、彼はすかさず「どうして分かち合うのですか? 神聖さをどうして分かち合うことが可能なんでしょう」と語気を強めます。
その場は水を打ったように静寂が流れました。
私も同様に愕然としました。
それこそが「分裂」だからです。
おわり